プロフィール

2015年3月11日水曜日

今日の言葉 稽古

石黒ブログを読んで頂けるご縁に感謝致します。


いつもありがとうございます。



昨日は3月10日、東京大空襲より丸70年。


そして本日、3月11日は東日本大震災より丸4年。



この3月の肌寒さが残る季節に時期を同じくして日本に起こった悲劇。(70年前と4年前)





いったい、

何を、

今を日本に生きる、

わしたち日本人に、

神様は知らせようとしているのか?

そう思わずにいられない様な気が致します。




本日の今日の言葉、少し長いですがどうかお読み下さい。

(☆印以下の文章は致知出版社様から頂いたメルマガの一部であります。)




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今からちょうど70年前の3月10日。

 この日、首都東京は米軍の大空襲によって
 一夜にして焦土と化しました。


「一夜にして戦災孤児になった。
 この胸の苦しみを次世代に伝えていかなければならない。
 命ある限り、供養を続けていきたい」


 昨日、東京・上野で行われた追悼式典でそう語ったのは、
 東京大空襲でご自身も家族6人を失いながら、
 いまもその記憶を留めるべく力を尽くしておられる
 エッセイストの海老名香葉子さんです。

 10万とも言われる犠牲者の皆様のご冥福を祈るとともに、
 本日は特別に、海老名さんにご登場いただいた
『致知』2005年8月号「致知随想」の記事を
 ご紹介させていただきます。



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 一日一言 平成27年3月10日(火)
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 『致知』2005年8月号「致知随想」

    「神様がくれたさつまいも」

    海老名香葉子(エッセイスト)




 昭和20年3月10日、
 東京が米軍による大空襲に遭い、
 たった2時間のうちに10万人が亡くなりました。
 
 早いものであれから60年。
 当時11歳だった私も70歳になり、
 これ以上齢を重ねては、戦火の恐ろしさと
 平和の大切さを後世に伝えることができなくなる。


 私は戦火を逃れるため、昭和19年に
 静岡県沼津市のおばの家に一人で縁故疎開しました。
 
 出発当日、私は大好きなおばさんの家に行けると
 わくわくしていましたが、母は涙をぼろぼろこぼしながら、
 お守りを首からかけてくれると、
 
 
「かよちゃんは明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」
 
 
 と何度も、何度も言うのです。

 母があまりにも悲しい顔をしているので、
 だんだんと心細くなってきました。
 
 
「母ちゃん、友達ができなかったらどうしよう」
 
 
 と呟くと、母は私の心細さを取り払ってくれるかのように、
 
 
「大丈夫よ。あなたは人に好かれるから大丈夫よ。
 明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」
 
  
 と何度も何度も繰り返しました。

 それが最後の言葉となりました。


 空襲後、生き残ったのは疎開していた私と、
 すぐ上の兄・喜三郎だけでした。
 兄は家族5人が亡くなったことを伝えるため
 沼津までやってきましたが、
 きっと焼け爛れた死体の山をまたいで、
 汽車にぶら下がるようにして
 東京からきてくれたのでしょう。
 
 その夜、私は兄にしがみ付きながら、
 いつまでも泣いていました。

 戦中戦後の動乱で誰もが生きていくのに精一杯の時代、
 2人もおばに世話になるのは悪いと、
 兄はあてもなく東京へ戻り、
 私は引き続き沼津のおばの家に残りました。

 そのあとは東京・中野のおばのもとへ身を寄せました。


 どうにか置いてもらおうと
 一所懸命お手伝いをしましたが、
 ある冬の日、瓶に水を張っていないという理由で、
 おばにものすごく叱られました。
 
 それまでは
 「いい子でいなくちゃ、好かれる子でいなくちゃ」と
 思っていましたが、その日はひどく悲しくなって
 家を飛び出しました。


 向かったのは、昔家族で住んでいた本所の家の焼け跡でした。
 焼け残った石段に腰を下ろし、ヒラヒラと雪が舞い散る中、
 目を閉じると家族の皆と過ごした平和な日々が蘇ってきました。


「どうしてみんな私を一人にしたの? 
 もうこのままでいいや……」


 その時、一人の復員兵が通りかかりました。
 私の前で立ち止まり、鞄の中から一本のさつまいもを
 取り出したかと思うと、半分に割って差し出しました。


「姉ちゃん、これ食べな。頑張らなくちゃダメだよ!」


 物が食べられない時代、見ず知らずの人が食糧を
 分けてくれることなど考えられないことです。

 私は夢中になって頬張りましたが、
 ふとお礼を言うのを忘れたと気づき、振り返りましたが、
 もうそこには誰もいませんでした。  

 いまにして思うと、あれは神様だったのかもしれません。
 神は私に「生きよ」と告げたのだと思っています。


 さつまいもを食べて元気になった私は、
 走っておばの家に戻りましたが、
 しばらくするとその家にもいられなくなりました。
 伝手で転々とする中で、つらいことはたくさんありました。

 でも拗ねたり、挫けたり、横道に逸れるようなことは
 しませんでした。
 
 それは両親に愛された記憶があるからです。

 悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、こんなことで泣いたら、
 別れ際に「かよちゃんは強い子よ」と言ってくれた
 母ちゃんが悲しむ。
 
 それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。


 平和な時代に生きるいまの人たちには、
 子どもをいっぱいいっぱい愛してやってほしいと思います。
 親に心底愛された子どもは、
 苦境に遭っても絶対に乗り越えていけます。
 
 そしてもう二度と戦争によって
 私のような悲しい思いを、
 地球上のすべての子どもたちにさせられません。
 
 それが戦後60年の節目に願うことであり、
 私のすべての活動の原動力になっています。(談)



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致知より



拳立て七十四回です。



今日一日、皆様が無事であることを神にお祈り致します。



押忍                         石黒康之

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