プロフィール

2016年5月8日日曜日

愛媛県西条市にある、知的障碍者のための
 通所施設「のらねこ学かん」。

 ここを自費で運営する塩見志満子さんが
 学かんを立ち上げるまでの人生は、
 まさに試練に次ぐ試練の連続でした。

 ご主人と2人のご子息の死を乗り越え、
 ハンディのある子どもたちと
 向き合う中で塩見さんが見出した
 子どもたちに伝えていくべきこととは──。


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(塩見)
 1つのきっかけとなったのは
 私が38歳の時に、小学2年生の
 長男を白血病で失ったことです。
 白血病というのは大変な痛みが
 伴うんですよ。

 ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、
 そんなこと言う子じゃないんですが
「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」
 と大声で叫んだんです。
 
 主治医の先生は30代のとても立派な方で
「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と
 手を震わせておられた。
 長男はその2か月半後に亡くなりました。
 
 長男が小学2年生で亡くなりましたので、
 4人兄弟姉妹の末っ子の二男が
 3年生になった時、私たちは
「ああこの子は大丈夫じゃ。
 お兄ちゃんのように死んだりはしない」
 と喜んでいたんです。

 ところが、その二男もその年の夏に
 プールの時間に沈んで亡くなってしまった。
 長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。
  
 近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」と連絡があって、
 タクシーで駆けつけたら
 もう亡くなっていました。
 
 子供たちが集まってきて
「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。

「どうしたんや」と聞いたら
 10分の休み時間に誰かに
 背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、
 沈んでしまったと話してくれました。
 
 母親は馬鹿ですね。
「押したのは誰だ。
 犯人を見つけるまでは、
 学校も友達も絶対に許さんぞ」
 という怒りが込み上げてくるんです。

 新聞社が来て、テレビ局が来て
 大騒ぎになった時、同じく高校の
 教師だった主人が大泣きしながら
 駆けつけてきました。
 そして、私を裏の倉庫に連れていって、
 こう話したんです。

「これは辛く悲しいことや。
 だけど見方を変えてみろ。
 犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、
 過ちとはいえ自分の子は
 友達を殺してしまった、という罪を
 背負って生きてかないかん。
 
 わしらは死んだ子をいつかは
 忘れることがあるけん、
 わしら2人が我慢しようや。
 うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、
 校医の先生に心臓麻痺で死んだという
 診断書さえ書いてもろうたら、
 学校も友達も許してやれるやないか。
 そうしようや。そうしようや」
  
 こんな時、
 男性は強いと思いましたね。

 でも、いま考えたらお父さんの
 言うとおりでした。
 争うてお金をもろうたり、
 裁判して勝ってそれが何になる……。
 
 許してあげてよかったなぁと思うのは、
 命日の7月2日に墓前に
 花がない年が1年もないんです。
 30年も前の話なのに、
 毎年友達が花を手向けて
 タワシで墓を磨いてくれている。

 もし、私があの時学校を訴えていたら、
 お金はもらえてもこんな優しい人を
 育てることはできなかった。

 そういう人が生活する町にはできなかった。
 心からそう思います。

・  ・  ・  ・  ・

(──宝物のような我が子を2人も
 失うという大変な逆境を、よくぞ
 乗り越えてこられましたね。)
  
(塩見) 
 でも、この苦しみは抜け出そうと
 思ってもなかなか抜け出せるものでは
 ありませんでした。
 もう教師は辞めようと思って退職を
 願い出たこともあります。

 そうしたら校長先生が
「もし、あなたが希望するなら、
 あなたを必要としているところが
 あります」と言ってくださったんです。
 それが養護学校でした。 

 私はそれまで長く、教師として子供たちに
 人権教育を行ってきました。
 いじめはいけない、
 差別はいけないと。

 だけど、ひとたび学校を出て
 家庭の主婦に戻った途端に
 対岸の火事でした。
 
 自分がその身になれないんです。
「これではいけない。養護学校に通う、
 あの子らに本気で学ばなんだったら、
 きっと一生後悔するだろう」と
 痛烈に思いましたね。
 
 教員になりたい人はいっぱいいます。
 だけど、この子らの将来を
 支える人がいない。

 この子らには卒業しても
「おめでとう」と言ってあげられない。
 次に行くところがないわけですから。

 その頃はまだ、お母さんが泣きながら
 育てなくてはいけない世の中でした。
 
 私はこの子らと一緒に生活できる
 人になろうと思いました。
 それで57歳の時、教員を辞めて
「のらねこ学かん」を立ち上げる
 決意をしたんです。


(──ご主人は納得されたのですか。)

(塩見)
 納得してくれました。 
 でも、その主人も62歳の時に
 亡くなってしまうんです。
 
 国道を挟んだところにある畑に
 草を刈りに行く途中、
 2トントラックに撥ねられたんですね。
 
 本当の悲しみは涙が出ない、
 というのはそのとおりですね。
 主人が横たわっている座敷で
 天井を見ながら一日中ボーッとしていました。
 
 そうしていたら若い男の人が
 訪ねてきたんです。トラックの
 運転手さんでした。

「僕が事故の相手です。
 許してくださいなんて言いません。
 殺されても仕方がありません。
 どうか奥さんのいいように
 してください」と土間に
 土下座しましてね。

 二男が死んだ後、人を許すということを
 主人は教えてくれました。
 
 世界で一番憎たらしいその人が
 玄関に土下座した時、私がなんで
 あんなことを言ったのか、
 自分でも分かりません。
 だけど私の口からこういう
 言葉が出たんです。

「あなただけが悪いんじゃないの。
 車と人が喧嘩をしたら車が勝つに
 決まっています。
 あなたは若いから、主人の分まで
 生きて幸せになってくださいよ。
 そうしたら主人も成仏できる。
 私が警察に嘆願書を出すから、
 どうかそうしてくださいね」
 
 だけど、許した後で親戚が家に
 集まってきて
「おまえの良識はおかしい」
「それじゃ死んだ者は浮かばれん」
 と散々詰め寄られました。
 
 その時、私は一人、親戚と
 闘いながら心の中で主人に静かに
 語り掛けていたんです。
「お父さん、これでよかったよね」って。

・  ・  ・  ・  ・ 

 恐ろしいことに、いま
「将来、自分の子供を殺すのが夢だ」
 と普通に語る小学生がいます。
 話を聞くと、幼い頃から両親に
 虐待を受けている。

 命というものが軽んじられる
 こんな時代にしてしまったのは
 私ら大人の責任です。
 
 私は自分が100まで生きても
 この罪の償いはできんと
 思っています。

 だけど、
 せめて自分に縁のある人たちの
 人生は花開かせてあげたいし、
 天国の主人もそのことを一番
 望んでいるのではないかと思います。

………………………………………………

「降りかかる逆境と試練が
 私の人生の花を咲かせた」
 
 塩見志満子
(のらねこ学かん代表)

『致知』2014年7月号
 特集「自分の花を咲かせる」より



致知出版社様メルマガよりシェアさせていただきました。


押忍!


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