プロフィール

2016年7月19日火曜日

 京都・山科に一燈園という
 修養団体がある。
 
 宗教法人ではなく、
 人間としての生き方を学ぶ
 修養団体で、大正10年(1921)、
 西田天香さんが家々を回り、
 便所掃除をし、うかつに
 生きていることをお詫びして
 生活されたことから始まった
 集まりである。

 その天香さんに三上和志さん
 というお弟子さんがいた。
 ある日、三上さんはある病院に
 招かれて講話を行った。
 1時間ほど話して院長室に戻ると、
 院長がいたく感動して、お願いが
 あるという。何事ですかと聞くと、
 院長は切りだした。

「実は私の病院に少年院から
 預かっている18歳になる
 結核患者がいます。容態は悪く
 あと10日も持つかという状態です。
 この少年に三上さんの話を聞かせて
 やりたいのです。
 
 ただ問題なのは、両親も身寄りもなく、
 非常にひねくれていて、三上さんの
 話を素直に聞いてくれるかどうかは
 わかりません。

 重体で病室からは一歩も
 出られないので、こちらから
 出向くしかないのですが、
 今日のような話をたとえ
 20分でも30分でも聞かせて
 やりたいのです。
 少しでも素直な気持ちになって
 くれれば……」

 院長に案内されて行ったところは
 病院の一番奥にある隔離病棟で、
 5つある個室のうち彼の部屋だけ
 使われていた。

 げっそり痩せて頬骨が尖り、
 無精髭を生やした少年の顔は
 黄色く淀んでおり、
 目の周りが黒ずんでいる。 
 黄疸を併発しているのだろうか。

・  ・  ・  ・  ・  ・

「おい、こっち向けよ。
 今日は一晩中看病させてもらうからな」

 すると、少年は
「チェッ、もの好きな奴やな」と
 言いながらも、顔を向けた。

「お前の両親はどうした?」

「そんなもん、知るけ」

 嫌なことを聞くなと拒絶するような
 雰囲気だ。

「知るけって言ったって、
 親父やお袋が無くて
 赤ん坊が生まれるかい」
 
 少年は激しく咳き込んで、
 血を吐いた。

「おれはなあ、うどん屋の
 おなごに生まれた父無し子だ。
 親父はお袋のところに
 遊びに来ていた大工だそうだ。
 お袋が妊娠したって聞いた途端、
 来なくなったってよ。
 お袋はおれを産み落とすと
 そのまま死んじまった」

「そうか」

「うどん屋じゃ困ってしまい、
 人に預けて育てたんだとよ。
 そしておれが7つのときに
 呼び戻して出前をさせた。
 学校には行かせてくれたが、
 学校じゃいじめられてばかりいて、
 ろくなことはなかった。
 
 店の主人からもいつも殴られていた。
 ちょっと早めに学校に行くと、
 朝の仕事を怠けたと言っては殴られ、
 ちょっと遅れて帰ると、
 遊んで来たなと言って殴られた。
 食べるものも、客の食べ残ししか
 与えられなかった。
 だから14のときに飛び出したんだい」

「そうか。
 いろんなことがあったんだな」

・  ・  ・  ・  ・  ・

「おっさん、笑っちゃいかんぞ。」

「何じゃ。笑いはせんぞ。言っちまいな」

「あのなー、一度でいいから、
 お父っつぁんと呼んでいいかい」

 三上さんは思わず卯一の顔を見た。
 この機会を逃すまいと真剣そのものだ。

「ああ、いいよ。わしでよかったら、
 返事するぞ」

「じゃあ、言うぞ」

「いちいち断るな」

 しかし、卯一はお父っつぁんと
 言いかけて、激しく咳き込んだ。
 身をよじって苦しんで血痰を吐いた。
 三上さんは背中をさすって、
 看病しながら、

「咳がひどいから止めておけ。
 興奮しちゃ体によくないよ」

 というのだが、卯一は何とか言おう
 とする。すると続けざまに咳をして、
 死ぬほどに苦しがる。

「なあ、卯一。今日は止めとけ。
 体に悪いよ」

 三上さんは泣いた。
 それほどまでして、こいつは
 お父っつぁんと言いたいのか。
 悲しい星の下に生まれたんだなあと
 思うと、後から後から涙が伝った。

 苦しい息の下からとぎれとぎれに、
 とうとう卯一が言った。

「お父っつぁん!」

「おう、ここにいるぞ」

 卯一の閉じた瞼(まぶた)から
 涙がこぼれた。どれほどこの言葉を
 言いたかったことか。
 それに返事が返ってくる。
 卯一はもう一度言った。

「お父っつぁん」

「卯一、何だ。
 お父っつぁんはここにいるぞ」

 もう駄目だった。
 大声を上げて卯一は泣いた。18年間、
 この言葉を言いたかったのだ。
 わあわあ泣く卯一を、毛布の上から
 撫でさすりながら、三上さんも何度も 
 鼻を拭った。

 明け方、とろとろと卯一は寝入った。
 三上さんは安らかな卯一の寝顔に満足
 し、一睡もせず足をさすり続けた。

・  ・  ・  ・  ・  ・

 三上さんが院長室に帰ると、
 そこに院長先生がいた。
 昨晩は家に帰らず、院長室のソファに
 寝たようだ。院長室のドアが
 慌ただしくノックされた。
 どうぞという院長の声に息せきって
 入って来たのは、若い医師だった。

「ちょっと報告が……」という声に、
 院長は席を立って、事務机の方で
 若い医師の報告を聞いた。
 そして聞くなり、叫んだ。 
 
「三上先生!津田卯一はたったいま
 息を引き取りました。」

「えっ!」

 三上さんは茫然とした。

 若い医師は信じられないものを
 見たかのように、深く息を吸い込んだ。

「毛布の下で合掌していたんです!
 あいつが、ですよ……
 信じられない……
 合掌していたんです」

 涙声に変わっている。
 院長もうつむいている。
 三上さんもくしゃくしゃな顔になった。

「……卯一、でかしたぞ。よくやった。
 合掌して死んでいったなんて……。
 お前、すごいなあ、すごいぞ」

 あたかもそこに卯一に語りかけて
 いるようだった。

「卯一よお、聞いているかあ……。
 なあ、お前を産んでくれた親のことを
 恨むなよ。
 お前に辛く当たった大人たちのことも
 許してやってくれ……。
 わしもお詫びをするさかいなあ」

 三上さんの涙声に、
 院長の泣き声が大きくなった。
 
 そうだった。
 誰も人を責めることはできないのだ。
 責めるどころか、お詫びしなければ
 いけないのだ。
 いさかい合い、いがみ合う世の中を
 作ってしまっていることに対し、
 こちらから先に詫びなければいけない
 のだ。
 
 そうするとき、和み合い、睦み合う
 世の中が生まれてくるのだ。
 病院を出て、講演先の講演に向かう
 三上さんの肩に秋の陽が躍っていた。

……………………………………………

「下坐に生きる」

 神渡良平(かみわたり りょうへい)
(作家) 
 
『致知』1997年2月号
 特集「流れをつかみ、超える」より

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