父には大きな転機がいくつかありましたが、
65歳で教師を辞めて詩一筋の生活を
始めたのもその一つでしょう。
もっと早く詩一筋の生活を
したかったようですが、
父は家族を犠牲にして何かをする人では
ありませんでした。
私がお嫁に行って夫婦二人だけに
なったところで、ようやく念願だった生活を
始めるのです。
夕方4時に寝て、起きるのは午前零時。
まず独自の体操をして、次にお経をあげます。
庭に出ると、「念ずれば花ひらく」の碑に
お参りをし、宇宙の霊気を吸って
また部屋に戻ります。
そして「そろそろお日様が出る時間かな」
という少し前に家を出て、近所に流れる
重信川の橋を渡って土手に下りると、
地球(地面)に額をつけて
お祈りを捧げるのです。
この一連の儀式を、父は65歳から
95歳まで続けます。
さすがに95歳近くになると
休む日が目立つようになりましたが、
それまでは雨が降ろうと
寒い冬の日であろうと毎日続けました。
晩年、父と一緒に暮らしていた頃には、
日の出前に音がすると「あぁ出て行ったな」、
またしばらくして音がすると
「あぁ無事に帰ってきたな」と
よく耳を澄まして聞いていたものです。
これは父にとって行そのものだったので、
家族がそこに顔を出すことは
一度としてありませんでした。
詩一筋の生活というのは、言ってみれば
一日の生活すべてが詩に向かっていた
ということです。
それも父は何事においても徹底していました。
「自分は天才ではないのだから、
少しでも長く生きて、
少しでも多くの詩を書く」
と口にしていた父は、食べる物にしても
美味しい物ではなく、
体によい物を食べていたのです。
本当にすべてが詩に向かっていた姿からは、
耳を澄ませば
「コツコツ」
という音が聞こえてくるのではないかと
思ったくらいでした。
ただ詩を書く。コツコツと。
おそらくある一定の期間だけで
よいというのであれば、こうした生活を
続けられる人もいるかもしれませんが、
これを一生続けるというのは
本当に難しいことだと思います。
◆月刊誌『致知』最新号(2月号)
「父・坂村真民の歩いた道」より
坂村真民氏ご息女・西澤真美子さん
65歳で教師を辞めて詩一筋の生活を
始めたのもその一つでしょう。
もっと早く詩一筋の生活を
したかったようですが、
父は家族を犠牲にして何かをする人では
ありませんでした。
私がお嫁に行って夫婦二人だけに
なったところで、ようやく念願だった生活を
始めるのです。
夕方4時に寝て、起きるのは午前零時。
まず独自の体操をして、次にお経をあげます。
庭に出ると、「念ずれば花ひらく」の碑に
お参りをし、宇宙の霊気を吸って
また部屋に戻ります。
そして「そろそろお日様が出る時間かな」
という少し前に家を出て、近所に流れる
重信川の橋を渡って土手に下りると、
地球(地面)に額をつけて
お祈りを捧げるのです。
この一連の儀式を、父は65歳から
95歳まで続けます。
さすがに95歳近くになると
休む日が目立つようになりましたが、
それまでは雨が降ろうと
寒い冬の日であろうと毎日続けました。
晩年、父と一緒に暮らしていた頃には、
日の出前に音がすると「あぁ出て行ったな」、
またしばらくして音がすると
「あぁ無事に帰ってきたな」と
よく耳を澄まして聞いていたものです。
これは父にとって行そのものだったので、
家族がそこに顔を出すことは
一度としてありませんでした。
詩一筋の生活というのは、言ってみれば
一日の生活すべてが詩に向かっていた
ということです。
それも父は何事においても徹底していました。
「自分は天才ではないのだから、
少しでも長く生きて、
少しでも多くの詩を書く」
と口にしていた父は、食べる物にしても
美味しい物ではなく、
体によい物を食べていたのです。
本当にすべてが詩に向かっていた姿からは、
耳を澄ませば
「コツコツ」
という音が聞こえてくるのではないかと
思ったくらいでした。
ただ詩を書く。コツコツと。
おそらくある一定の期間だけで
よいというのであれば、こうした生活を
続けられる人もいるかもしれませんが、
これを一生続けるというのは
本当に難しいことだと思います。
◆月刊誌『致知』最新号(2月号)
「父・坂村真民の歩いた道」より
坂村真民氏ご息女・西澤真美子さん
☆☆☆
致知出版社様メルマガより
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