お疲れ様です。^^;
いつもお世話になり、ありがとうございます^^;
本日の極真 蒲郡 浜松大蒲 各道場の稽古風景です。
本日も一日、お疲れ様でした、ありがとうございました!
感謝致します。
押忍^^;
2017年2月2日木曜日
日本民族の底力
【成功したいなら「日本人らしさ」を活かしなさい】
ラグビー元日本代表ヘッドコーチ、エディー・ジョーンズ氏の心に響く言葉より…
成功とは非常に難しいものだと思っていませんか?
皆さんの多くは、おそらくこう考えているのではないでしょうか。
「頑張っているのだけれど、なかなか結果が出ない」
「本当の成功を収められるのは、運と才能に恵まれた人だけだ。どうせ自分には、無理」
そういう人は、成功が、雲の上にあるように感じているのだと思います。
私にはそんな皆さんが、ラグビー日本代表ヘッドコーチに就任し、初めて会った時の選手たちに重なります。
私は選手たちに、力強く言いました。
「君たちは、これから世界のトップ10に入る!そして、3年後のワールドカップに、必ず勝つ!」
しかし、選手たちは、白けた顔をしたまま、誰も同意してくれません。
日本人は、とてもシャイです。
私の大胆な提案に、恥ずかしがっているのかと思いましたが、どうもそうではありません。
尋ねるうち、彼らはようやく口を開きました。
「日本が世界の強豪チームに勝つなんて、絶対に無理です。日本は、ワールドカップで過去に1勝しかしたことがないんですよ。それも20年以上も昔です」
「日本人は、外国人に比べてずっと体が小さい。こればかりは、どうしようもありません。ラグビーは、体と体のぶつかり合うスポーツです。どう考えても、勝てるわけがありません」
このように日本人選手の、「自分たちは弱い」という思い込みは、非常に強固でした。
やがてトレーニングが始まり、私は選手たちの思い込みを取り除きながら、チームに「ジャパン・ウェイ」という日本独自のやり方を植え付けました。
これは、ほかの国には真似できない「日本らしさ」を、徹底的に活かしたものです。
そこには、プレースタイルやトレーニング方法だけでなく、努力の仕方、マインドセット(心構え)など、精神的なものが多く含まれています。
スポーツは、身体的なものによる部分が大きいと考える方が多いかもしれませんが、実際は、そうではありません。
考え方や姿勢など、精神的なもののほうがずっと大きいのです。
「ジャパン・ウェイ」は少しずつ、チームに根付いていきました。
その結果、日本は世界のトップ10に入り(最高9位)、2015年のワールドカップでは3勝を上げることができたのです。
ワールドカップの試合で、特に印象的なのは、「奇跡の勝利」「スポーツ史上最大の番狂わせ」と言われた南アフリカ戦であることは言うまでもありません。
南アフリカは、過去ワールドカップで2回優勝しています。
通算成績は25勝4敗、勝率は世界一で、2015年の大会でも優勝候補でした。
一方、日本の過去における戦績は、1勝21敗2分。
25年前の1991年に、1度勝ったきりです。
試合前、あるイギリスの大手ブックメーカーが出したオッズでは、日本が34倍、南アフリカが1倍でした。
これは日本んがほぼ間違いなく負けることを意味します。
日本は劇的な逆転勝利で、それをひっくり返したのです。
日本人は、ものすごい底力を持った民族です。
それは短い歳月で目覚ましい成長を遂げた日本の選手たちを、間近で見てきた私が、誰よりも実感しています。
日本人にしかない強い力…、それはいくつもあります。
限りない粘り強さ、並外れた勤勉さ、きめ細かな技術、頭のよさ、そしてあの感動的な連帯感…。
一方で日本人は、謙虚な国民です。
謙虚はもちろん美徳にはちがいありません。
しかし、弊害があるように思えます。
それは謙虚がいきすぎて、自身を過小評価し、あの素晴らしい力を眠らせてしまうことになりかねないからです。
日本人は、自分の長所に気付くことが、非常に不得手だと思います。
そこへ内向きでシャイな資質が加わり、「どうせうまくいくはずがない」と、マイナス思考を凝り固まらせている人が、とても多いのではないでしょうか。
「自分はどうせダメだ」というマイナス思考が、成功を阻(はば)んでいるのです。
それを取り除きさえすれば、誰でも成功を手に入れることができます。
『ハードワーク』講談社
エディー・ジョーンズ氏は本書の中でこう語る。
「太平洋戦争で焦土と化し、最貧国になったのち、わずか20年ほどで、日本は世界第2位の経済大国にのし上がったのです。
これほど目覚ましい復興と成長をとげた国が、世界の歴史上あるでしょうか。
おそらく戦後のある時期まで、日本人は、豊かな社会という目標に向かって、皆が皆、身を粉にして働いたのでしょう。
そのエネルギーには、言語を絶するものがあります。
しかし、日本は、50年ほど前に、目標を達成してしまいました。
目標を達成するとは、一方で、それを見失うことでもあります。
豊かになった日本は、経済の停滞期とともに、自らの力を眠らせてしまったのではないでしょうか。
私は日本のラグビーを見て、これと同じようなことを感じました。
本当は力があるのに、それを出せないまま、弱い状態に甘んじている。
その期間が長いため、マイナス思考が染みつき、活路を見いだせない…」
自分の中に密かに眠っている力や長所を引き出してくれ、それを心からほめられたら、それで奮起しない人はいない。
『成功したいなら「日本人らしさ」を活かしなさい』
粘り強さ、勤勉さ、頭のよさ、連帯感…
日本人としての長所を活かし、前に向かって進んでいきたい。
■「人の心に灯をともす」のfacebookページです♪
http://www.facebook.com/hitonokokoro
■【人の心に灯をともす】のブログはこちら
http://ameblo.jp/hiroo117/
ラグビー元日本代表ヘッドコーチ、エディー・ジョーンズ氏の心に響く言葉より…
成功とは非常に難しいものだと思っていませんか?
皆さんの多くは、おそらくこう考えているのではないでしょうか。
「頑張っているのだけれど、なかなか結果が出ない」
「本当の成功を収められるのは、運と才能に恵まれた人だけだ。どうせ自分には、無理」
そういう人は、成功が、雲の上にあるように感じているのだと思います。
私にはそんな皆さんが、ラグビー日本代表ヘッドコーチに就任し、初めて会った時の選手たちに重なります。
私は選手たちに、力強く言いました。
「君たちは、これから世界のトップ10に入る!そして、3年後のワールドカップに、必ず勝つ!」
しかし、選手たちは、白けた顔をしたまま、誰も同意してくれません。
日本人は、とてもシャイです。
私の大胆な提案に、恥ずかしがっているのかと思いましたが、どうもそうではありません。
尋ねるうち、彼らはようやく口を開きました。
「日本が世界の強豪チームに勝つなんて、絶対に無理です。日本は、ワールドカップで過去に1勝しかしたことがないんですよ。それも20年以上も昔です」
「日本人は、外国人に比べてずっと体が小さい。こればかりは、どうしようもありません。ラグビーは、体と体のぶつかり合うスポーツです。どう考えても、勝てるわけがありません」
このように日本人選手の、「自分たちは弱い」という思い込みは、非常に強固でした。
やがてトレーニングが始まり、私は選手たちの思い込みを取り除きながら、チームに「ジャパン・ウェイ」という日本独自のやり方を植え付けました。
これは、ほかの国には真似できない「日本らしさ」を、徹底的に活かしたものです。
そこには、プレースタイルやトレーニング方法だけでなく、努力の仕方、マインドセット(心構え)など、精神的なものが多く含まれています。
スポーツは、身体的なものによる部分が大きいと考える方が多いかもしれませんが、実際は、そうではありません。
考え方や姿勢など、精神的なもののほうがずっと大きいのです。
「ジャパン・ウェイ」は少しずつ、チームに根付いていきました。
その結果、日本は世界のトップ10に入り(最高9位)、2015年のワールドカップでは3勝を上げることができたのです。
ワールドカップの試合で、特に印象的なのは、「奇跡の勝利」「スポーツ史上最大の番狂わせ」と言われた南アフリカ戦であることは言うまでもありません。
南アフリカは、過去ワールドカップで2回優勝しています。
通算成績は25勝4敗、勝率は世界一で、2015年の大会でも優勝候補でした。
一方、日本の過去における戦績は、1勝21敗2分。
25年前の1991年に、1度勝ったきりです。
試合前、あるイギリスの大手ブックメーカーが出したオッズでは、日本が34倍、南アフリカが1倍でした。
これは日本んがほぼ間違いなく負けることを意味します。
日本は劇的な逆転勝利で、それをひっくり返したのです。
日本人は、ものすごい底力を持った民族です。
それは短い歳月で目覚ましい成長を遂げた日本の選手たちを、間近で見てきた私が、誰よりも実感しています。
日本人にしかない強い力…、それはいくつもあります。
限りない粘り強さ、並外れた勤勉さ、きめ細かな技術、頭のよさ、そしてあの感動的な連帯感…。
一方で日本人は、謙虚な国民です。
謙虚はもちろん美徳にはちがいありません。
しかし、弊害があるように思えます。
それは謙虚がいきすぎて、自身を過小評価し、あの素晴らしい力を眠らせてしまうことになりかねないからです。
日本人は、自分の長所に気付くことが、非常に不得手だと思います。
そこへ内向きでシャイな資質が加わり、「どうせうまくいくはずがない」と、マイナス思考を凝り固まらせている人が、とても多いのではないでしょうか。
「自分はどうせダメだ」というマイナス思考が、成功を阻(はば)んでいるのです。
それを取り除きさえすれば、誰でも成功を手に入れることができます。
『ハードワーク』講談社
エディー・ジョーンズ氏は本書の中でこう語る。
「太平洋戦争で焦土と化し、最貧国になったのち、わずか20年ほどで、日本は世界第2位の経済大国にのし上がったのです。
これほど目覚ましい復興と成長をとげた国が、世界の歴史上あるでしょうか。
おそらく戦後のある時期まで、日本人は、豊かな社会という目標に向かって、皆が皆、身を粉にして働いたのでしょう。
そのエネルギーには、言語を絶するものがあります。
しかし、日本は、50年ほど前に、目標を達成してしまいました。
目標を達成するとは、一方で、それを見失うことでもあります。
豊かになった日本は、経済の停滞期とともに、自らの力を眠らせてしまったのではないでしょうか。
私は日本のラグビーを見て、これと同じようなことを感じました。
本当は力があるのに、それを出せないまま、弱い状態に甘んじている。
その期間が長いため、マイナス思考が染みつき、活路を見いだせない…」
自分の中に密かに眠っている力や長所を引き出してくれ、それを心からほめられたら、それで奮起しない人はいない。
『成功したいなら「日本人らしさ」を活かしなさい』
粘り強さ、勤勉さ、頭のよさ、連帯感…
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量子論
2017年2月1日水曜日
日本人の宗教観
【他宗教に対して寛容な日本人】
曹洞宗・安泰寺住職、ネルケ無方氏の心に響く言葉より…
日本人は宗教に無関心である。
これは事実だ。
日本人は無宗教である。
これは事実に反する。
よく、「日本人は、正月には神社に初詣に行き、結婚式は教会のチャペルで挙げて、葬式には坊主を呼ぶ」と言われる。
日本人に宗教を問うと、「特には…」と曖昧だ。
「仏教徒だ」と言う人も少なくないが、自宅にはなぜか仏壇と神棚がある。
日本人の多くは、どこかの寺の檀家であるが、自身の宗派の教義をきちんと理解している人は稀(まれ)であろう。
日本人は決して無宗教ではない。
日本人は、外国からの様々な物事を受け入れ、カスタマイズし、生活全般に反映している。
宗教も同様である。
日本人は「非常に寛容な宗教心」を持っているのだ。
私はそう思うようになった。
キリスト教には、明確なドグマ(教義)がある。
イエス・キリストというはっきりとした象徴がある。
三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊)がある。
それがキリスト教を信仰している人々の支えになっている。
しかしキリスト教は、他宗教を否定する。
イスラム教やユダヤ教を基本的には認めていない。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、もともとは同じ神を信仰しているのに、お互いを否定して対立している。
キリスト教内でもカトリックとプロテスタントに分かれ、ときにお互いを否定する。
ところが、日本にはそういった宗教間の対立がほとんどない。
日本人同士は宗教のことでいっさい喧嘩をしない。
仏教と神道が争うことはない。
いまの日本人はキリスト教を否定しない。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では、神様はひとり、「一神教」だ。
神様はひとりだから、神様は喧嘩しないが、教徒たちは絶えず喧嘩をしている。
西洋人が日本人から大いに見習うべき点は、ここだろう。
日本には、八百万(やおよろず)の神様がいる。
仏教にも釈尊もいれば、阿弥陀様もいる。
その他にも仏はたくさんいる。
実は、私が住職を務める安泰寺の本尊は、何仏であるかわからない。
曹洞宗であるから釈迦如来であるはずだが、阿弥陀さんに見えるという人もいる。
また、大日如来ではないかという説もある。
仏像の専門家に見せてもわからない。
住職である私にもわからない。
本尊が何仏であるか、わからなくても日本では住職を務められる。
悪く言えばいい加減で曖昧だが、柔軟性があるとも言える。
この柔軟なところが肝要だ。
「柔軟さ」が、世界宗教になくてはならないひとつの要素である。
柔軟性を失い、固くなってしまえば、固い宗教、偏っている宗教、喧嘩せざるを得ない宗教になる。
それは人の役に立たない。
人に害を及ぼす宗教だ。
そのこだわりが、相手の宗教を否定してしまうことにつながる。
宗教にこだわりすぎている人には、本当の宗教心がない。
宗教が必要だと強く主張する人には、宗教心が足りない。
宗教心が本当に自分の中にあふれていれば、宗教を問題にする必要がないからだ。
日本人にとっての宗教は、空気を吸って吐くように自然なものではないだろうか。
宗教心があふれているからこそ、無宗教に見える。
だから、他宗教に対して寛容にもなれるし、宗教を理由に他人を否定する必要もない。
宗教に無関心である日本人は、最も宗教的な人々だと私は思う。
ドイツにあって日本にないものは何か。
それは宗教の授業だ。
ドイツの子供たちは14歳になるまで親の宗教に準じて、学校の宗教の授業を受ける。
そして14歳になると、自分がどの宗派に属するかを選択する。
日本には宗教の授業はないが、悲観する必要はない。
日本の学校では給食が出る。
給食の前には全員で「いただきます」と言い、食べ終わったら「ごちそうさまでした」と言う。
部活動で、仲間の大切さや協調性を体で覚える。
自分たちが使っている教室やトイレは自分たちで掃除する。
これは、禅の教えを実践していることなのだ。
子供たちが当たり前のことのようにしている給食や掃除などは、とても大切な行いである。
ドイツの子供たちは聖書の教えを授業で学ぶが、それが行動に反映されていない。
イエス・キリストの教えを頭に詰め込んでも、その教えを実践する機会が学校内にはまずない。
『日本人に「宗教」は要らない』ベスト新書
ネルケ無方氏は本書の中でこう語る。
『安泰に入門したとき、疑問に思ったことがある。
「私は、禅を極めるために日本に来た。掃除や料理をしに日本に来たわけではない。仏道の修業をしに来たのに、なぜ雑用をしなければいけないのか」
この疑問に対して、私の師匠はこう答えた。
「掃除をしないで、料理をしないで、何が仏道修行か。履物をきれいに並べることも非常に大事なこと。脚下照顧(きゃっかしょうこ)、足元を見なさい。
いまでは、私も師匠の言葉の意味がわかる。
掃除や料理を差し引き、履物の並べ方も差し引き、雑用にみえていたそれらすべてを差し引いて、いったい何が残るのだろう。
何も残らない。
いま生きているその瞬間をないがしろにして、ほかに何をするのか。
座禅以外の日常生活も修行なのだ』
また、日本人の日常会話はとても宗教心にあふれているという。
「ありがとう」「すみません」「いただきます」「ごちそうさま」「もったいない」「お互いさま」「お蔭さま」など。
「日本人は無宗教ではない」
なぜなら、日常の言葉や行動そのものが宗教的だから。
他宗教に対して寛容である日本人に誇りを持ちたい。
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曹洞宗・安泰寺住職、ネルケ無方氏の心に響く言葉より…
日本人は宗教に無関心である。
これは事実だ。
日本人は無宗教である。
これは事実に反する。
よく、「日本人は、正月には神社に初詣に行き、結婚式は教会のチャペルで挙げて、葬式には坊主を呼ぶ」と言われる。
日本人に宗教を問うと、「特には…」と曖昧だ。
「仏教徒だ」と言う人も少なくないが、自宅にはなぜか仏壇と神棚がある。
日本人の多くは、どこかの寺の檀家であるが、自身の宗派の教義をきちんと理解している人は稀(まれ)であろう。
日本人は決して無宗教ではない。
日本人は、外国からの様々な物事を受け入れ、カスタマイズし、生活全般に反映している。
宗教も同様である。
日本人は「非常に寛容な宗教心」を持っているのだ。
私はそう思うようになった。
キリスト教には、明確なドグマ(教義)がある。
イエス・キリストというはっきりとした象徴がある。
三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊)がある。
それがキリスト教を信仰している人々の支えになっている。
しかしキリスト教は、他宗教を否定する。
イスラム教やユダヤ教を基本的には認めていない。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、もともとは同じ神を信仰しているのに、お互いを否定して対立している。
キリスト教内でもカトリックとプロテスタントに分かれ、ときにお互いを否定する。
ところが、日本にはそういった宗教間の対立がほとんどない。
日本人同士は宗教のことでいっさい喧嘩をしない。
仏教と神道が争うことはない。
いまの日本人はキリスト教を否定しない。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では、神様はひとり、「一神教」だ。
神様はひとりだから、神様は喧嘩しないが、教徒たちは絶えず喧嘩をしている。
西洋人が日本人から大いに見習うべき点は、ここだろう。
日本には、八百万(やおよろず)の神様がいる。
仏教にも釈尊もいれば、阿弥陀様もいる。
その他にも仏はたくさんいる。
実は、私が住職を務める安泰寺の本尊は、何仏であるかわからない。
曹洞宗であるから釈迦如来であるはずだが、阿弥陀さんに見えるという人もいる。
また、大日如来ではないかという説もある。
仏像の専門家に見せてもわからない。
住職である私にもわからない。
本尊が何仏であるか、わからなくても日本では住職を務められる。
悪く言えばいい加減で曖昧だが、柔軟性があるとも言える。
この柔軟なところが肝要だ。
「柔軟さ」が、世界宗教になくてはならないひとつの要素である。
柔軟性を失い、固くなってしまえば、固い宗教、偏っている宗教、喧嘩せざるを得ない宗教になる。
それは人の役に立たない。
人に害を及ぼす宗教だ。
そのこだわりが、相手の宗教を否定してしまうことにつながる。
宗教にこだわりすぎている人には、本当の宗教心がない。
宗教が必要だと強く主張する人には、宗教心が足りない。
宗教心が本当に自分の中にあふれていれば、宗教を問題にする必要がないからだ。
日本人にとっての宗教は、空気を吸って吐くように自然なものではないだろうか。
宗教心があふれているからこそ、無宗教に見える。
だから、他宗教に対して寛容にもなれるし、宗教を理由に他人を否定する必要もない。
宗教に無関心である日本人は、最も宗教的な人々だと私は思う。
ドイツにあって日本にないものは何か。
それは宗教の授業だ。
ドイツの子供たちは14歳になるまで親の宗教に準じて、学校の宗教の授業を受ける。
そして14歳になると、自分がどの宗派に属するかを選択する。
日本には宗教の授業はないが、悲観する必要はない。
日本の学校では給食が出る。
給食の前には全員で「いただきます」と言い、食べ終わったら「ごちそうさまでした」と言う。
部活動で、仲間の大切さや協調性を体で覚える。
自分たちが使っている教室やトイレは自分たちで掃除する。
これは、禅の教えを実践していることなのだ。
子供たちが当たり前のことのようにしている給食や掃除などは、とても大切な行いである。
ドイツの子供たちは聖書の教えを授業で学ぶが、それが行動に反映されていない。
イエス・キリストの教えを頭に詰め込んでも、その教えを実践する機会が学校内にはまずない。
『日本人に「宗教」は要らない』ベスト新書
ネルケ無方氏は本書の中でこう語る。
『安泰に入門したとき、疑問に思ったことがある。
「私は、禅を極めるために日本に来た。掃除や料理をしに日本に来たわけではない。仏道の修業をしに来たのに、なぜ雑用をしなければいけないのか」
この疑問に対して、私の師匠はこう答えた。
「掃除をしないで、料理をしないで、何が仏道修行か。履物をきれいに並べることも非常に大事なこと。脚下照顧(きゃっかしょうこ)、足元を見なさい。
いまでは、私も師匠の言葉の意味がわかる。
掃除や料理を差し引き、履物の並べ方も差し引き、雑用にみえていたそれらすべてを差し引いて、いったい何が残るのだろう。
何も残らない。
いま生きているその瞬間をないがしろにして、ほかに何をするのか。
座禅以外の日常生活も修行なのだ』
また、日本人の日常会話はとても宗教心にあふれているという。
「ありがとう」「すみません」「いただきます」「ごちそうさま」「もったいない」「お互いさま」「お蔭さま」など。
「日本人は無宗教ではない」
なぜなら、日常の言葉や行動そのものが宗教的だから。
他宗教に対して寛容である日本人に誇りを持ちたい。
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