プロフィール

2023年12月27日水曜日

【血眼ではなく、ゆったりとした努力を】



ひろさちや氏の心に響く言葉より…


小野次郎右衛門忠明といえば、江戸初期の剣術家で、小野派一刀流の祖である。

あるとき、彼のところに一人の剣客がやって来て、弟子入りを請う。

彼はある程度、基礎ができていた。


「先生、わたくしが本気で修行すれば、どれくらいで奥義(おうぎ)がきわめられますか?」

「そうだな、貴殿の腕前で本気でやれば、五年でいいだろう」 小野忠明はそう答える。


「では、寝食を忘れてやれば、どれくらいかかりますか?」

「それなら十年はかかる」


「では、命がけでやれば......?」

「命がけでやると、まあ、一生かかっても奥義に達することはできんじゃろう」


剣客はおこりだす。

そんなばかなことがあるものか・・・というわけである。

しかし、小野忠明は、これで正しいと言う。

そなたにこの道理のわからぬうちは、入門を許さぬと告げた。

剣客は、数日して、これが納得できたそうだ。


仏教語に"精進"という語がある。

「努力」の意味だ。

しかし、努力といっても、努力のしすぎは精進ではない。

血眼(ちまなこ)になってする努力はいわば執念であって、仏教は不可としている。


仏教で言う精進は、ゆったりとした努力である。

ゆったりと、そして着実な努力をつづけることを、仏教は教えているのである。

小野忠明の考えも、まさに仏教の精進なのだ。

ゆったりと学ぶことを、彼は言っている。


《血眼(ちまなこ)にではなく、ゆったり着実な努力を》



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必死の努力や、血眼の努力は、見ていて苦しくなる。

「ゆっくり」や「ゆったり」という余裕がないからだ。


順天堂大学医学部教授の小林弘幸氏は、日本文化の真髄は「ゆっくり」や「ゆったり」だという。


それは、武道や茶道、華道などの日本の伝統文化の「道」にある。

たとえば、お辞儀をするときは、「残心(ざんしん)」が必要だという。

残心(ざんしん)は、武道でもよく使われる言葉だ。

残心は、技を決めた後でも、相手の反撃に対して油断をしない、気を抜かない、という心的態度であり、かまえでもある。

だから、剣道では、一本とったあとガッツポーズなどしようものなら、驕(おご)りや慢心があり、「残心なし」とみなされ、一本を取り消されることもある。


「寝食を忘れてやる」「命がけでやる」という血眼の努力には、「残心」はない。

真剣と深刻とは違うように、真剣にやるのはいいが、何事も深刻になった途端、余裕がなくなる。


「血眼ではなく、ゆったりとした努力を」という言葉を胸に刻みたい。






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