【今世この世に来た意味がある】
北川八郎氏の心に響く言葉より…
《釈尊はいわれる
生きとし生ける者どもは死ぬであろう。
生命は終(つい)には死に至る。
人は、作った業に従って赴(おもむ)き、それぞれ善と悪の報いを受ける。
老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も順次に去って行く。
熟した果実が、枝から落ちてゆくように。
昼夜は過ぎ行き、人間の寿命は尽きる。
男も女も幾百万人と多くいるが、財を蓄えたあげく、死の力に屈する。
いくら財を蓄えても、最後には生命の方が尽きてなくなってしまう。
高い地位・身分も終には離れてしまう。
歩んでいても、止まっていても、人の命は昼夜に過ぎ去り、とどまりはしない。
たとえ百歳を生きたとしても、終には死に帰着する。》
人の今世に生まれた使命の一つは、前世の悪しき業を修正し、その痛みと喜びを学びに来たことだといえる。
だから、釈尊はあの世においては、人は今世作った業に応じてそれぞれの住む光のレベルが決まるといわれる。
今の世の善と悪の報いに応じて、あの世の学びのクラスが違ってくる。
人は皆、楽しむ人も、苦しむ人も、嘆く人も、喜ぶ人も、果実が木から落ちるように寿命は尽き、魂の大海に呑まれる。
多くの人は地位と財を目指すけれど、百年もつことはほとんどなく、またいくら財を蓄えても、生命の方が先に滅してゆく。
私たちの命の電池はもうあまりないことを知って、あわてず急いだ方がいい。
どんな高い地位も身分も命をそれを捨てて、あの世に赴く。
眠っていても、歩んでいても、笑っていても、TVを見ていても、止まることなく、昼夜に命の電池は消耗してゆく。
百歳生きても、それは一瞬にして、必ず人は死に帰着する。
いつまでも生きられると思うなかれ。
時の過ぎゆくは、過ぎてみると早いと知る。
今世の善き行為と、悪しき行為の光の明るさによって、あの世では苦を受け、さらに来世では悪をなした人の立場が替わり、与えた苦を自分が受けて、その苦の深さとつらさと痛さを味わって、次の世で修正するチャンスを与えられる。
私たちはみな、今世この世に来た意味がある。
財と地位を手にし、快と、野望を果たしに、人間として生を与えられたのではない。
あらゆる、命の尊さ、美しさ、楽しさ、喜びの深さを学びにきているのだ。
『ブッダのことば 「百言百話」』致知出版社
「因果応報(いんがおうほう)」という言葉がある。
善い行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある、ということ。
しかし、この世に生きている間に、ひどく悪いことをした悪人に、悪い報いがないということは間々(まま)あることだ。
なんであんなひどい人間に罰がくだらないのか、と思う。
しかし、釈尊は、それは来世において報いがある、という。
朝比奈宗源(あさひなそうげん)老師の知り合いの僧は、博打(ばくち)ばかりするひどい人間だったという。
その僧が博打をやって負けて帰ってくると、宗源老師は「あいつもやがて死ぬやっちゃ」と独り言をいっていたという。
それは、老師が、「しかたのないやつだ…」と諦観(ていかん)して言った言葉だ。
この世では罰(ばち)は当たらないかもしれないが、あの世でその報いを受けるのに、と。
「私たちはみな、今世この世に来た意味がある」
あらゆる、命の尊さ、美しさ、楽しさ、喜びの深さを日々学びたい。
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北川八郎氏の心に響く言葉より…
《釈尊はいわれる
生きとし生ける者どもは死ぬであろう。
生命は終(つい)には死に至る。
人は、作った業に従って赴(おもむ)き、それぞれ善と悪の報いを受ける。
老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も順次に去って行く。
熟した果実が、枝から落ちてゆくように。
昼夜は過ぎ行き、人間の寿命は尽きる。
男も女も幾百万人と多くいるが、財を蓄えたあげく、死の力に屈する。
いくら財を蓄えても、最後には生命の方が尽きてなくなってしまう。
高い地位・身分も終には離れてしまう。
歩んでいても、止まっていても、人の命は昼夜に過ぎ去り、とどまりはしない。
たとえ百歳を生きたとしても、終には死に帰着する。》
人の今世に生まれた使命の一つは、前世の悪しき業を修正し、その痛みと喜びを学びに来たことだといえる。
だから、釈尊はあの世においては、人は今世作った業に応じてそれぞれの住む光のレベルが決まるといわれる。
今の世の善と悪の報いに応じて、あの世の学びのクラスが違ってくる。
人は皆、楽しむ人も、苦しむ人も、嘆く人も、喜ぶ人も、果実が木から落ちるように寿命は尽き、魂の大海に呑まれる。
多くの人は地位と財を目指すけれど、百年もつことはほとんどなく、またいくら財を蓄えても、生命の方が先に滅してゆく。
私たちの命の電池はもうあまりないことを知って、あわてず急いだ方がいい。
どんな高い地位も身分も命をそれを捨てて、あの世に赴く。
眠っていても、歩んでいても、笑っていても、TVを見ていても、止まることなく、昼夜に命の電池は消耗してゆく。
百歳生きても、それは一瞬にして、必ず人は死に帰着する。
いつまでも生きられると思うなかれ。
時の過ぎゆくは、過ぎてみると早いと知る。
今世の善き行為と、悪しき行為の光の明るさによって、あの世では苦を受け、さらに来世では悪をなした人の立場が替わり、与えた苦を自分が受けて、その苦の深さとつらさと痛さを味わって、次の世で修正するチャンスを与えられる。
私たちはみな、今世この世に来た意味がある。
財と地位を手にし、快と、野望を果たしに、人間として生を与えられたのではない。
あらゆる、命の尊さ、美しさ、楽しさ、喜びの深さを学びにきているのだ。
『ブッダのことば 「百言百話」』致知出版社
「因果応報(いんがおうほう)」という言葉がある。
善い行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある、ということ。
しかし、この世に生きている間に、ひどく悪いことをした悪人に、悪い報いがないということは間々(まま)あることだ。
なんであんなひどい人間に罰がくだらないのか、と思う。
しかし、釈尊は、それは来世において報いがある、という。
朝比奈宗源(あさひなそうげん)老師の知り合いの僧は、博打(ばくち)ばかりするひどい人間だったという。
その僧が博打をやって負けて帰ってくると、宗源老師は「あいつもやがて死ぬやっちゃ」と独り言をいっていたという。
それは、老師が、「しかたのないやつだ…」と諦観(ていかん)して言った言葉だ。
この世では罰(ばち)は当たらないかもしれないが、あの世でその報いを受けるのに、と。
「私たちはみな、今世この世に来た意味がある」
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