以下(★記し以下)は、
Facebook上でお友達になっている方の投稿からであります。
読んでいて、涙が止まらなくなってしまいました。
また、読んでいて、
現在の世の中の人は、この行為をどう捉えるのだろうか?
馬鹿な行為だと笑い飛ばすのだろうか?
、と考え込んでしまいました。
もし、
わしが同じ立場になったら.......
少なくとも、少しでも同じ判断を下せる人間でありたいと思っております。
また、読んでいて、
安岡正篤先生の御言葉を思い出しました。
「我々に今大切なことは、
誰に何と言われようが、
愚忠愚孝(ぐちゅうぐこう)を尽くすことだ。
道を学んだ者として、甘んじて、
愚にならねばならぬ。
おそらく世間には新たな局面に、
巧みに投じて得意顔に跳ね廻る奸人詐人、
いわゆる利口者が輩出するであろう。」
・・・・・・・・・・・・
いつもの如く前置きが長くなってしまいましたが、
是非とも御一読の程をおすすめ致します。
★★★★★
「あなたはここまで人を許せますか?」
愛媛県西条市に「のらねこ学かん」という
知的障碍者のための通所施設があります。
ここを自費で運営し、
ハンディのある人たちの
人生の花を開かせている塩見志満子さん。
そんな塩見さんの人生は、
まさに試練に次ぐ試練の連続でした。
壮絶かつ感動的な人生体験、
そこから掴まれた信条を学ぼうと、
いま全国各地から
講演の依頼が舞い込んでいます。
塩見さんが語った
「降りかかる逆境と試練が
私の人生の花を咲かせた」とは──。
──そこから学かんの立ち上げまでは
どのように進むのですか。
一つのきっかけとなったのは
私が38歳の時に、
小学2年生の長男を
白血病で失ったことです。
白血病というのは
大変な痛みが伴うんですよ。
「痛い、痛い」と叫ぶと
脊髄から髄液を抜く。
そうすると痛みが少し和らぐ。
それを繰り返すわけですよ。
ある時、
長男はあまりの痛さに耐えかねて、
そんなこと言う子じゃないんですが
「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と
大声で叫んだんです。
主治医の先生は
30代のとても立派な方で
「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と
手を震わせておられた。
長男はその2か月半後に
亡くなりました。
49日が済んだ後、主人と2人、
お世話をかけたその主治医の先生に
御礼を言うために病院に行きました。
ところが、いらっしゃらないんです。
聞いてみたら、長男が死んだ後、
「僕は小児がんの研究をするために
アメリカに渡る」と
すぐにその病院を辞められたと。
私たちは「ボロ医者」と
いう長男の一言が、
この先生をいたく
傷つけたかもしれないと思うと
申し訳なさでいっぱいでした。
後で知ったのには、
その先生は10年間
アメリカで小児がんの研究をした後、
小児がんの権威となり
日本の国立小児病院に
帰ってこられたそうです。
いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。
──そうでしたか。
長男が小学2年生で
亡くなりましたので、
4人兄弟姉妹の末っ子の二男が
3年生になった時、
私たちは
「ああこの子は大丈夫じゃ。
お兄ちゃんのように死んだりはしない」
と喜んでいたんです。
ところが、その二男も
その年の夏にプールの時間に
沈んで亡くなってしまった。
長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。
──プールの事故で突然……。
近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」と連絡があって、
タクシーで駆けつけたら
もう亡くなっていました。
子供たちが集まってきて
「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。
「どうしたんや」と聞いたら
10分の休み時間に
誰かに背中を押されて
コンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまったと話してくれました。
母親は馬鹿ですね。
「押したのは誰だ。
犯人を見つけるまでは、
学校も友達も絶対に許さんぞ」
という怒りが込み上げてくるんです。
新聞社が来て、
テレビ局が来て大騒ぎになった時、
同じく高校の教師だった主人が
大泣きしながら駆けつけてきました。
そして、私を裏の倉庫に連れていって、
こう話したんです。
「これは辛く悲しいことや。
だけど見方を変えてみろ。
犯人を見つけたら、
その子の両親はこれから、
過ちとはいえ自分の子は
友達を殺してしまった、
という罪を背負って生きてかないかん。
わしらは死んだ子を
いつかは忘れることがあるけん、
わしら2人が我慢しようや。
うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、
校医の先生に心臓麻痺で死んだという
診断書さえ書いてもろうたら、
学校も友達も許してやれるやないか。
そうしようや。そうしようや」
私はビックリしてしもうて、
この人は何を言うんやろかと。
だけど、
主人が何度も強くそう言うものだから、
仕方がないと思いました。
それで許したんです。友達も学校も……。
──普通の人にはできないことだと思います。
こんな時、男性は強いと思いましたね。
でも、いま考えたら
お父さんの言うとおりでした。
争うてお金をもろうたり、
裁判して勝ってそれが何になる……。
許してあげてよかったなぁと思うのは、
命日の7月2日に墓前に
花がない年が1年もないんです。
30年も前の話なのに、毎年友達が
花を手向けてタワシで
墓を磨いてくれている。
もし、私があの時学校を訴えていたら、
お金はもらえても
こんな優しい人を
育てることはできなかった。
そういう人が
生活する町にはできなかった。
心からそう思います。
-引用元-
塩見志満子(のらねこ学かん代表)
『致知』2014年7月号
「自分の花を咲かせる」より
★★★★★
以上であります。
押忍 石黒康之
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