プロフィール

2015年4月8日水曜日

今日の言葉 稽古

石黒ブログを読んで頂けるご縁に感謝致します。

いつもありがとうございます。



この人ほど人生の辛酸をなめた人はいまい、
 と思われる一人に二宮尊徳(幼名金次郎)がいる。

 天明7(1787)年、相模国栢山村(現・神奈川県小田原市)に
 中農の子として金次郎は生まれた。

 平穏な暮らしが一変したのは4歳の時だった。

 関東一円を襲った大暴風で酒匂川が氾濫、
 父の田畑は荒地と化し、一家は貧窮のどん底に落ちてしまう。


 災難はさらに続いた。

 その荒地開墾の無理がたたり、父は47歳で他界した。
 金次郎、13歳の時である。

 そして、その2年後、父の後を追うように、母が急逝する。
 35歳の若さだった。母の死後、弟2人は母の実家へ、
 金次郎自身は父方の伯父の家へと、一家は離散を余儀なくされる。


 伯父の家の野良仕事で働きずくめの毎日。

 だが注目されるのは、金次郎が学ぶのをやめなかったことである。
 柴刈りの山への往復さえ『大学』を手放さずに読み続けた。

 しかし、「百姓に学問は要らない」と伯父は勉学を嫌った。

 それでも金次郎は深夜に夜着をかぶって行燈の灯を隠し、
 本を読み続ける。

 だがそれも見つかって、「油がもったいない」と叱られた。


 金次郎は友人から借りた一握りの菜種を川土手に蒔き、
 収穫した菜種を油に変え、学び続けた。

 金次郎が捨てられた稲苗を拾ったのは16歳の時。
 それを荒れ地に植えた。

 秋、一俵の籾が穫れた。

 翌年、一俵の籾は五俵になった。


 自然の恵みに人間の勤労を加える営みをこつこつ積み重ねると、
 大きな成果になる。

 金次郎は「積小致大」の哲理を貧窮との戦いから会得する。

 それは至誠、勤労、分度、推譲という実践哲学に発展し、
 金次郎を多くの農民を救う指導者に成長させていった。

 立ちはだかった貧窮の壁。

 それを乗り越えようとする苦闘の中で
 二宮尊徳という人格は育まれたのである。


 形こそ違え、人生の壁は誰の人生にも訪れてくる。

 ただ、壁が前に立ちはだかった時に、
 人が辿る道は二つに分かれる。

 一つは壁に敢然と挑み、なんとしても乗り越えていこうとする道、
 もう一つは壁に圧倒され、萎縮し、逃避する道である。


 この25年、『致知』の取材を通して感受したことがある。



 『長の十訓』(藤尾秀昭・著)



致知より


拳立て一回です。




今日一日、皆様が無事であることを神にお祈り致します。


押忍 石黒康之

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