石黒ブログを読んで頂けるご縁に感謝致します。
いつもありがとうございます。
この人ほど人生の辛酸をなめた人はいまい、
と思われる一人に二宮尊徳(幼名金次郎)がいる。
天明7(1787)年、相模国栢山村(現・神奈川県小田原市)に
中農の子として金次郎は生まれた。
平穏な暮らしが一変したのは4歳の時だった。
関東一円を襲った大暴風で酒匂川が氾濫、
父の田畑は荒地と化し、一家は貧窮のどん底に落ちてしまう。
災難はさらに続いた。
その荒地開墾の無理がたたり、父は47歳で他界した。
金次郎、13歳の時である。
そして、その2年後、父の後を追うように、母が急逝する。
35歳の若さだった。母の死後、弟2人は母の実家へ、
金次郎自身は父方の伯父の家へと、一家は離散を余儀なくされる。
伯父の家の野良仕事で働きずくめの毎日。
だが注目されるのは、金次郎が学ぶのをやめなかったことである。
柴刈りの山への往復さえ『大学』を手放さずに読み続けた。
しかし、「百姓に学問は要らない」と伯父は勉学を嫌った。
それでも金次郎は深夜に夜着をかぶって行燈の灯を隠し、
本を読み続ける。
だがそれも見つかって、「油がもったいない」と叱られた。
金次郎は友人から借りた一握りの菜種を川土手に蒔き、
収穫した菜種を油に変え、学び続けた。
金次郎が捨てられた稲苗を拾ったのは16歳の時。
それを荒れ地に植えた。
秋、一俵の籾が穫れた。
翌年、一俵の籾は五俵になった。
自然の恵みに人間の勤労を加える営みをこつこつ積み重ねると、
大きな成果になる。
金次郎は「積小致大」の哲理を貧窮との戦いから会得する。
それは至誠、勤労、分度、推譲という実践哲学に発展し、
金次郎を多くの農民を救う指導者に成長させていった。
立ちはだかった貧窮の壁。
それを乗り越えようとする苦闘の中で
二宮尊徳という人格は育まれたのである。
形こそ違え、人生の壁は誰の人生にも訪れてくる。
ただ、壁が前に立ちはだかった時に、
人が辿る道は二つに分かれる。
一つは壁に敢然と挑み、なんとしても乗り越えていこうとする道、
もう一つは壁に圧倒され、萎縮し、逃避する道である。
この25年、『致知』の取材を通して感受したことがある。
『長の十訓』(藤尾秀昭・著)
致知より
拳立て一回です。
今日一日、皆様が無事であることを神にお祈り致します。
押忍 石黒康之
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