精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…
誰にでも嫌いな人はいる。
私にも「いっしょにいると不愉快だ」と思う人はいる。
しかし、そういう人でもうまく利用することはできる。
私は、嫌な人物に出会うと「他山(たざん)の石」と思うことにしている。
「他山の石」とは、どんなものでも自分を磨く助けになるという意味だ。
他の山でとれた粗悪な石でも、自分が玉(宝石)を磨くときの砥石(といし)に使える、ということである。
自分のやっていることには、なかなか気がつかないものだ。
だが、相手の言動で不愉快な思いをすると「自分も気をつけよう」と思う。
「あれはやっちゃいけない」「ああならいほうがいい」と気がつく。
これはありがたい。
この、嫌な人のおかげで、またひとつ、やってはいけないことがわかった。
そう思うと、少しは口惜(くや)しさが晴れる。
また、その場では負けたような気がして嫌な気分でも、内心、「なんとかあいつをやっつけてやろう」「追い越してやろう」と自分が努力するエネルギーの源泉になる。
まわりがあまりにいい人ばかりでは、幸せかもしれないが、満足してしまい、それ以上に発奮しない、ということにもなり得る。
しかし、ありがたいことに、世の中は嫌な人間にことかかない。
だから、しょっちゅう発奮することができる。
人間観察の力も養われる。
電車に乗っていても、周囲を観察していると楽しいものだ。
なかにはデーンと足を開いて二人分の座席を独占している人もいる。
「他人様(ひとさま)への思いやりが全然ないなあ。あれはよくない」と思う。
ちょっと他人に気を配る気持ちがあれば、あんなことはできない。
こういう人は自分のことしか頭にないのだろう。
反対に、私の家内などは電車の中で、重そうな荷物を抱えた20代の若奥さんに「どうぞお座りください」と席をゆずったりしている。
自分の年を忘れている。
これには相手も困ってしまう。
私も以前は席をゆずると、自分がまだ若いという気持ちになって、気分がよかったが、相手への思いやりもその年齢なりに変わってくるものだと気づいた。
あなたの周囲にも、きっと「感じの悪い人」がいるだろう。
その人は、実は、神様がおつかわしになった悪い見本例である。
毛嫌いせずに「いい人間関係をつくるのに役立った。ありがたや、ありがたや」とつぶやいてみるといいのである。
『ほがらかに品よく生きる』新講社
小林正観さんは、「イライラさせる人」はいないという。
いるのは、イライラする人がいるだけ。
ある人をみて、Aさんはイライラし、別のBさんは何も気にならない。
これは、幸不幸の現象と同じ。
幸福という現象や、不幸という現象があるわけではなく、幸福と感じる人と、不幸と感じる人がいるだけだ。
たとえば、道で転んで足を骨折してしまったとき…
ある人は、この程度ですんでよかった、ラッキーだった、ツイてる、と感謝する。
別のある人は、ホントにツイてない、まったく嫌になる、なんでこんなことばかり起こるんだろう、と悲観する。
いつの時代にも、どんな世界にも、嫌な奴(やつ)は必ずいる。
だが、それを「その人がいるから自分も有頂天にならずにすんでいる」とか「"人の振り見て我が振り直せ"という神様からのメッセージなんだな」と思うなら、その人は幸せな人生を送れる。
反対に、「いつか仕返ししてやる」「今度会ったら怒鳴り返してやる」と思うなら、その人は不幸の道をまっしぐらだ。
不愉快な人に会った時…
「いい人間関係をつくるのに役立った。ありがたや、ありがたや」とつぶやける人でありたい。
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押忍
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