石黒ブログを読んで頂けるご縁に感謝致します。
いつもありがとうございます。
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ですからたとえば親が病気になったとか、
あるいは家が破産して願望の上級学校へ行けなくなったとか、
あるいはまた親が亡くなって、
本校を終えることさえ困難になったとか、
その外いかなる場合においても、
大よそわが身に降りかかる事柄は、
すべてこれを天の命として慎んでお受けをするということが、
われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。
ですからこの根本の一点に心の腰のすわらない間は、
人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。
したがってここにわれわれの修養の根本目標があると共に、
また真の人間生活は、ここからして出発すると考えているのです。
(中略)
そこで今この信念に立ちますと、現在の自分にとって、
一見ためにならないように見える事柄が起こっても、
それは必ずや神が私にとって、
それを絶対に必要と思召されるが故に、
かくは与え給うたのであると信ずるのであります。
ところが、「神が思召されて——」などと言うと、
まだ宗教心を持たれない諸君らには、あるいはぴったりしないかも知れません。
それなら次のように考えたらよいでしょう。
すなわち神とは、この大宇宙をその内容とする
その根本的な統一力であり、
宇宙に内在している根本的な生命力である。
そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、
人格的に考えた時、これを神と呼ぶわけです。
かく考えたならば、わが身にふりかかる一切の出来事は、
実はこの大宇宙の秩序が、そのように運行するが故に、
ここにそのようにわれに対して起きるのである。
かくしてわが身にふりかかる一切の出来事は、
その一つひとつが、神の思召であるという
宗教的な言い現し方をしても、何ら差し支えないわけです。
すなわちこれは、道理の上からもはっきりと説けるわけです。
そこで、今私がここで諸君に申そうとしているこの根本信念は、
道理そのものとしては、きわめて簡単な事柄であります。
すなわち、いやしくもわが身の上に起こる事柄は、
そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、
またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。
それ故われわれは、それに対して一切これを拒まず、
一切これを却けず、素直にその一切を受け入れて、
そこに隠されている神の意志を読み取らねばならぬわけです。
したがってそれはまた、自己に与えられた全運命を
感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、
否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、
すなわち天命を信ずるが故に天命を楽しむという境涯です。
致知より
拳立て九十回です。
今日一日、皆様が無事であることを神にお祈り致します。
押忍 石黒康之
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