伊藤肇氏の心に響く言葉より…
《出処進退の爽やかさ》
住友軽金属社長の小川義男が社内改革を目的とした大人事異動をやろうとして、いろいろ思案している最中にふと思いたって、朱子が編纂した『宋名臣言行録』を開いて読み進んでいくうちに「うーん」とうなった。
こんな一節にぶつかったからだ。
北宋の革新官僚、王安石がいわゆる「王安石の新法」を施行するにあたり、妙に才気走った小器用な奴ばかりを要職につけるので、心配した司馬光がその理由を問うと、「最初は才力ある人物を使って、しゃにむに新法を推進させ、ある程度、目鼻がついたところで老成の者に交替させて、これを守らしめる。いわゆる智者はこれを行い、仁者はこれを守るなり」と胸を張った。
ところがそれをきいた司馬光は途端に「ああ、安石誤れり…」と叫び、痛切な忠告をする。
「君子は顕職(けんしょく)につけようとしても、遠慮して、なかなかこれを受けないものである。だが、そのポストを辞めろといわれたときには、さっさと身をひき、出処進退が実にきれいだ。これにくらべて、いかに才智があっても小人はその反対で、一度得た地位はトコトン執着して放さない。もし、そいつを無理やりに辞めさせでもしたら、必ず恨みをふくみ、仇をなす。だから、今のような人事をやったら、他日、お前は臍(ほぞ)をかむことになるぞ」
しかし、功にはやる王安石は馬耳東風ときき流した。
結果は馘首(かくしゅ)した小人に讒言(ざんげん)されて失脚、せっかくの「新法」も潰れてしまう。
自らも爽やかな出処進退をやってのけた興銀相談役の中山素平は「責任者は、その出処進退に特に厳しさを要するというより、出処進退に厳しさを存するほどの人が責任者になるべきである」と規定しているが、特に「退」には、のっぴきならなぬ二つの「人間くさい作業」をやらねばならぬから、そこのところを見極めてさえおれば、最も正確な人物評価ができるのである。
一つは「退いて後継者を選ぶ」である。
これは企業において、自分がいなくても、仕事がまわっていくようにすることである。
いわば「己を無にする」ことからはじめなければならない。
住友総理事だった伊庭貞剛(いばさだたけ)は「人の仕事のうちで一番大切なことは、後継者を得ることと、後継者に仕事をひきつがせる時期を選ぶことである。後継者が若いといって譲ることを躊躇するのは、おのれが死ぬことを知らぬものである」と、痛烈な言葉を残している。
二つは「仕事に対する執着を断ちきる作業」である。
仕事を離れてみると、はじめて仕事が自分の人生にどんなウェートをもっていたががよくわかる。
そして、いかにも沢山の仕事をしてきたようにみえても、それがそのまま、自分の生きたあかしとはなり得ないことに気がつき、あげくのはては自分ひとりだけがとり残されたような、穴の底深く落ち込んでしまったような空爆感にさいなまれる。
これを克服するのは、口でいうほど、生やさしいことではない。
『現代の帝王学』プレジデント社
国や地方の政治家や、会社の社長、あるいは地域の各種団体のリーダーや、自治会の会長にいたるまで、およそリーダーと名の付く人にとって、出処進退、とりわけ「退」という辞め時は本当に難しい。
ともすると、他にやる人がいないからと、何十年と居座っている人は少なくない。
本人はそれを変だと思っていないからだが、まわりから見ると滑稽(こっけい)で異常だ。
勲章欲しさに、業界団体の役職をなかなか退かない人もいる。
反対に、力を残したまま、ひっそりと人知れず、無名のまま退く人もいる。
無名有力の人だ。
人間の真価は、その引き際にあらわれる。
退くことは、己を虚(むな)しくしなければならないからだ。
それは、「認めてほしい」という、人の持つ基本的な承認欲求を自ら断ち切ること。
出処進退の爽やかな人でありたい。
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