小林正観さんの心に響く言葉より…
生れてからずっと目が見えいない人は、「1秒でもいい、いや0.1秒でもいいから、親の顔を見てみたい」「結婚した相手の顔を見てみたい」「子どもの顔を見てみたい」と思いながら生きているそうです。
私たちは、0.1秒どころか、生まれてこのかた目が見えないことなどないにもかかわらず、目が見えるということに対して、感謝することなどまずありません。
それどころか、「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれをよこせ」「これをよこせ」と現状に対して不満ばかり口にしています。
私たちは小さい頃から、足りないものをリストアップして、それを手にいれなければ幸せになれないと教え込まれています。
そのように洗脳されているのです。
それを、「夢と希望に満ちあふれた生活」といいます。
それに対して、私は「夢と希望もない生活」を送っています。
夢も希望もない代わりに、悩みも苦しみも煩悩(ぼんのう)もありません。
私は酒もタバコも麻雀も、娯楽といわれるものは何もしませんし、休みもほとんどありません。
「何が楽しくて生きているのですか?」とときどき尋ねられることがありますが、「ただ幸せをかみしめて」生きている。
「自分がいかに恵まれているか」「自分がいかに幸せか」「自分がいかにありがたい状況に生きているか」ということに気づいたら、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の「五戒」など口から出てきません。
願いがかなったら、望んだものが手に入ったら感謝する、というのは、本当の感謝ではありません。
何も要求することなく、不平不満を言うこともなく、いま目の前にあるものをありがたく味わう。
それこそが、本当の「感謝」なのです。
人は、自分がいかに幸せな状況のなかで生きているかに気がつきません。
それは、海で泳いでる魚は、海を見ることができません。
それで「自分も海をみてみたい」と思い、釣り人が垂れている釣り糸にガブリ!とかぶりつくのです。
すると海の上に引っ張り上げられる。
それで初めて、魚は海というものを見ることができるのです。
釣り上げられた魚が「私」なら、釣り上げた人とは「神さま」。
釣り上げられた状態は何かといえば、「事故、災難」。
海とは、「幸せ」そのものです。
神さまに「幸せというものを見せてください」と言うと、神さまは「わかりました」と言って、災難や事故というものを起こして、私たちを釣り上げてくれます。
かぜをひいて、丸1日何も食べられなかったら、かぜが治ったときに食べた1杯のおかゆがとてつもなくおいしく感じられるでしょう。
元気いっぱいで毎日おいしいごちそうばかり食べていたら、おかゆのおいしさはなかなかわからないでしょう。
では、かぜで丸1日食べられなかったことは、はたして不幸なことだったのでしょうか?
そうとはいえないでしょう。
その体験があったからおかゆのおいしさ(幸せ)を味わうことができたのです。
私たちが「幸せ」を感じるためには、その前には一般的に「つらい、苦しい、大変」といわれる状況が起こるようです。
そういう構造になっている。
そのことに気づいたら、私たちはつらいこと、苦しいこと、大変なことに遭遇したときも、一喜一憂せずに、平静な心でいられるかもしれません。
『人生は4つの「おつきあい」』サンマーク出版
人は、「失って初めて、その大切さに気づく」という習性がある。
それは、両親だったり、恋人だったり、健康だったり、する。
当たり前の日常が、いかに大切な日々だったのか、いかに有り難かったのか。
やっかいなことに、それを失ってみないと気づかない。
「ありがとう(有り難う)」の反対は、「当たり前」だと言われる。
目が見えることも、耳が聞こえることも、話しができることも、本当は、当たり前ではない。
有ることが最も難しいことなのだ。
奇跡のようなこと。
そのことに気づいたとき、当たり前のように過ぎていく日常には感謝しかなくなる。
それは、自分の体に対しても同じ。
寝ている間も動いてくれている心臓や肺、ありとあらゆる臓器は文句もいわず365日休みなく動いてくれている。
自分がいかにありがたい状況に生きているか、に気づける人でありたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿