マーク・ポネ氏の心に響く言葉より…
ある年老いたヒンドゥー教の師は、一人の若い弟子が不平ばかり言うのにうんざりしていました。
それである朝、その弟子に塩を買いにいくように言いつけました。
弟子が戻ると、師はコップ一杯の水に、ひと握りの塩を入れて飲んでみなさいと言いました。
「どんな味がしたかな」と師が尋ねました。
「塩辛いです」と言って、弟子は塩水を吐き出しました。
師はクスリと笑い、同じひと握りの塩を持って、弟子を湖に連れて行き、それを湖の中に撒(ま)くように指示し、そして湖の水を飲んでみるよう言いました。
弟子のあごから水がしたたり落ちるのを見て、師は尋ねました。
「どんな味がしたかな」
「真水です」と弟子は答えました。
「塩の味はしたか」
「いいえ」
その答えを聞いて、師は昔の自分とよく似ている弟子と並んで腰を下ろし、こう諭(さと)しました。
「人生の苦労とは、塩のようなものだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
苦労の量はいつも同じだ。
まったく同じなのだ。
だが、私たちが味わう苦さは、その苦労を入れる器の大きさによって決まる。
だから、苦しい目にあったときは、物事を感じる自分の度量を大きくするしかないのだ。
コップではなく、湖になりなさい」
『「自分を変える」心の磨き方』三笠書房
安岡正篤師の器量の話がある。
『「あれは器量人だ」という言葉が通俗用語になっておりますが、これは人間の具体的存在を器という字で表現しているもので、人間の大きさ、深さを量(はか)る言葉として用いている言葉であります。
あれは頭が良い、よく出来る。
けれども人を容(い)れない。
人を用いる量がない。
深みがないなどといわれる人があります。
度量、器量ということが良く考えられなければならないわけです』《安岡正篤一日一言》より
坂本竜馬(勝海舟という説もある)は西郷隆盛を、「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と表したという。
相手が子供なら子供と同じ目線で偉ぶらないで話し、相手が天下国家のことを論ずるなら堂々と又それを論ずる。
器の大きな人物は、「肚ができている」「胆力がある」「怒りをコントロールできる」「許しがある」「人の話をじっくり聞くことができる」等々の人のことを言う。
《器の大きさで「幸せ」は決まる》
胆力のある器量人を目指したい。
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押忍!
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