「奇跡のりんご」
昔の木村さんは、どちらかというと、算盤(そろばん)勘定のほうが先に立つ男で、アメリカ式の大規模農業に憧れていたという。
両親が汗水たらして農作業に励む姿を見て、あんな効率の悪いことをやっていたら農家経済はいつまでもよくならないと、ブルドーザーやトラックの運転手をやって日銭を稼ぐことに熱中したり、大規模農場を視察に行っても、畑を見るより先に、最新式の農機具の方に関心を持つような人間であった。
だから農薬も躊躇なく使っていた。
ところが当時はいまのように、作業用の衣類もきちんとしていない時代だったので、農薬を散布すると中に染み込んできて火傷みたいな炎症を起こし、大きな水膨れができて、お風呂に入ると飛び上がるほどの痛みだったという。
奥さんも同じように顔中漆にかかぶれたように
真っ赤になってしまい、これはなんとかしなければと思案していたところで、自然農法の創始者・福岡正信先生の本に出会った。
最初は家族のために農薬を減らしたいという思いから取り組み始めたものが、
勉強を進めるうちに、農業は国民の食を支える重要な職で、少しでも安全な食の生産に努力しなければ、と考えるようになり、
これをやろう!
できるかできないかわからないけど、やってみようと心に誓った。
本を片っ端から読んで研究し、父親にやらせて欲しいと頼み込んだ。
反対されると思ったら、意外にもあっさりと認めてくれたという。
あとで聞いた話では、どうせ2、3年もすればやめると思ってのことだったそうだ。
だが、意気込みとは反対に、試みは順調にはいかなかった。
害虫はどんどん増えて、りんごの木は見るも無残な姿になった。
なんとかしなければとあれこれ手を尽くすが、何一つ効果がない。
自分では十分勉強をしたつもりで、簡単なものだとどこかで軽く考えていた。
それがとんでもないしっぺ返しをくらった。
誰もやったことのない栽培だから、どんな本を紐解いても答えは書いていなかった。
もう何をしていいかわからなくなり、りんごの木に
「答えを教えてくれ」
「一個でもいいから実らせてください」
と必死に話しかける毎日だった。
二年目から花一つ咲かなくなり、五年目には幹に寄り添うとグラグラ揺れるようになった。
「一個も実らなくていいからどうか枯れないで」
と、祈るような気持ちで一本一本に語りかけていた。
隣の畑からは
「木村はりんごの木と話している」
「とうとう狂ってしまった」
という声が聞こえてきた。
収入もなく、農機具を売ったり、パチンコ店員、キャバレーの呼び込みなどで食いつないでいた。
周りからも随分ときつい陰口をたたかれ、申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうな時に、さらに親戚がやってきて「もう姿の見えない所に行ってくれ」ときつい言葉を浴びせられた。
居場所を失い、しばらく畑のそばの小屋に寝起きしていたら、3人の娘たちが心配してやってきた。
3人の子供たちには、給食費も払えないようなほんとうに辛い思いをさせてしまったのに、それでも愚痴っぽいことは一言も言わなかった。
が、長女の書いた「お父さんの仕事」という作文を読んだ時にはほんとうにショックだった。
「私のお父さんはりんごを作っています。
朝から晩まで畑に行っています。
でも私はりんご一個食べたことがありません」
あぁ、俺はこの子たちの親を名乗る資格は何もない。
なんてバカな男なんだろうと、畑でひとり思い悩むことが多くなった。
とうとうある晩、ロープを持って岩木山に向かった。
どこか首をくくるのに適当な木はないかと…
山の中腹から見る弘前の夜景が、やけにきれいな夜だった。
適当な木を見つけてロープを投げたら、見事に外れて草の中に埋もれてしまった。
月明かりで探していた時に、目の前にあるはずのないリンゴの木を見つけてハッとした。
我を忘れて駆け寄ってよく見たら実はどんぐりの木だったのだが、虫もほとんどついてないし、葉の一枚一枚の厚みが違う。
人がまったく手を加えない山奥で、どうしてこんなに元気に育っているんだろうと不思議に思い、辺りを見ると、草が自由に伸びていて、根元からなんともいえない土のいい匂いがしてきた。
そこの土をほじくってみて「これだ」って直感した。
どんぐりの周辺にはいろいろな草が自由に生い茂っていて、それぞれが役割を分担して一つの生態系を維持していた。
元気の元はこの土だ。
これを自分の畑で再現しようと思った。
木村さんは語る。
「それまでりんごの木たちは私に、根っこを見ろ、土の中を見ろって一生懸命言い続けていたんだと思うの。
それに気づかずに土の上ばかり、目に見える部分ばかり見ていたものだからあんなに長く苦しんだわけ。」
木村さんは山の土を持ち帰って、同じ匂いがするまで土壌の改良を進めていった。
草の刈り取りをやめ、大豆を植えて、草ぼうぼうの状態にした。
傍目にはわからないが、りんごの木が少しずつ元気になっていくような気がした。
2年後にはたくさんの木の中でたった1本だったが、七つばかり花をつけ期待が膨らんだ。
その翌年だった。
隣の畑の主人がやってきてこう言った。
「木村、見たか! 早く畑に行ってみろ!」
すぐに奥さんと家を飛び出したが、畑には怖くて行けなかった。
隣の畑の小屋から恐る恐るのぞいた途端、真っ白な色が目に飛び込んできた。
りんごの木たちが競うように花を咲かせ、畑は白一色に覆い尽くされていた。
目からは涙が溢れ出てきた。
無農薬・無肥料栽培に取り組んで、十年目のことだった。
ここまで耐えて続けられたのは、やっぱり家族の協力のおかげだと木村さんは語る。
以下は木村さんの言葉です。
何をやっても結果が出なかった頃は、頭の中にいつも二人の自分がいてよ、
一年が終わる頃には、
「来年はこうやろう、きっとよくなる」
「なんてお前はバカなんだ。来年はもうやめろ」
って言い合うんです。
でも雪が融けて春が来るとまた女房に、
「今年一年やらせてくれないか」
と言ってしまうわけ。
女房は何も返事をしませんでした。
きっと心の中では複雑な思いもあったでしょうけど、最後まで文句も言わずについてきてくれた。
ほんとうにありがたかった。
それは常々、社会にお役に立つ仕事をしよう、そういう生き方を貫いていたらきっと道は開ける、と言い続けていたからだと思います。
その心の誓いにきっと共感してくれていたんだと思うんです。
いまの日本はどこか殺伐としていて、おかしな事件がたくさん起こっているでしょう。
それは結局、人間は偉いんだという驕(おご)りや錯覚から生じているんじゃないでしょうか。
農業の指導で全国を回らせてもらっていますが、そういう機会を通じて謙虚な心、感謝の心を持つことの大切さを私は訴えているんです。
「今年一年ご苦労さん」って一言でいいからさ、田んぼや畑にねぎらいの言葉を掛けてくださいって私は皆さんに言うの。
漫画みたいな話しだけれども、「頑張ってくれ」といつも声を掛けているりんごはよく育つんです。
声を掛けないりんごと比べると一目瞭然です。
だから私は、畑に行ったらいつもりんごの木一本一本に話し掛けるの。
「よく頑張ってくれてるね。」
「ありがとう」って。
大切なのは心です。
植物にも愛情を持って向き合うことが大事で、技術は後からついてくるんです。
とくに私は失敗の期間が長かったから、収穫する時の感謝の気持ちは 人一倍大きいんです。
自分がこのりんごを実らせたと思ったことはありません。
りんごの木が実らせてくれるんです。
主役はあくまでもりんごでさ、私はただりんごが育つお手伝いをしているだけ。
だってさ、どんなに頑張ったって、自分の体にりんごはならないもんな(笑)。
人間は自分を高い位置に置いて、りんごを見てしまいがちだけれども、
自分もりんごも同じ生き物だという位置に立って愛情を持って接することが大事だと思うんです。
農業に限らず、いまの社会全体にそういう謙虚さとか愛情が欠けて、ギシギシしているんじゃないでしょうか。
私は農業という命を育む立場から、人間が本来持っている温かい心や愛情の大切さを訴え続けていきたいですね。
出典元:人間学を学ぶ月刊誌「致知」4月号「わがりんご畑に奇跡の花は咲いた」
シェアさせていただきました。
押忍
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