・父は敬の対象 (父の日にあたり、父親の戒めとして)
父母には自ら分業があって、母は愛の対象、父は敬の方を分担するように出来ておるから、子供を偉くしようと思えば、先ず親父が敬するに足る人間にならなければならぬ。
これが一番大事なことです。
藤樹先生の説かれた哲学は、決して子供の親に対する事だけを答えたものではない。
しみじみ読んでおると、親父の役目は大事だなということが判る。
ところが、藤樹先生の孝の哲学を説いた本は世間に沢山出ておりますが、このことに気のついておる註釈は甚だ少ない。
成る程孝という文字そのものは、子供の親に対するものでありますけれども、それは表面だけの意味で、中へ入ってゆけば、父を敬することが一番の本筋であります。
父の中に敬するに足るものを発見できることである。
言い換えれば、父が敬されるに足る人間でなければならぬということであります。
ところが小伜(こせがれ)の時にはこれがなかなか解らない。
又親父も余程しっかりしないと伜に判らせられない。
やはり子供というものは、死んだ親父の年くらいにならぬとよく親父が判らない。
勿体ないけれども、どうも順送りで仕方がない。
そこで死んだ親父のことを先考(せんこう)と言う。
これは「考える」ということと同時に、「成す」という意味を持っている。
何故亡き父を先考というか。
親父が亡くなってみると、或は亡くなった親父の年になってみると、成る程親父はよく考えてやって来た、と親父の努力、親父のして来たことがはじめて理解できる。
人間は考えてしなければ成功しない。
考えてはじめて成すことが出来る。
考成という語のある所以です。
だから子供はなるべく早いうちから親父の偉いところを見抜く努力がなければならぬ、少なくとも志がなければならぬ。
又親父も伜にそれを悟らせるだけの内容を持たなければならぬ。
父というものは物を多く言わぬけれども、滅多に子供に干渉はしないけれども、父はどういう人であるかということを子供はよく直感しておる。
そして常に本能的に父を模倣する。
愚かなる親は、子供が折角買ってやった可愛い帽子を放ったらかして、親父の大きな帽子をかぶったり、靴を引っかけたりしておるのは、子供のふざけた可愛い仕種のように思うが、決してそうではない。
あれは子供が親父たらんとして、敬意と自負心とを持ってやっておるのです。
子供は子供らしい帽子や靴だけで喜ぶものでは決してない。
子を知るには親に如かずと言うけれども、子を知らざるも亦親に如かずであります。
要するに盲目的な愛情は堕落する。
親と子の間に最も大事なものは敬である。
これが藤樹先生の孝の学問であります。
『照心講座』 致知出版社 「藤樹と蕃山先生と今後の学問」より抜粋引用
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