プロフィール

2017年3月18日土曜日

ゆるし

【最愛の夫と息子を亡くしてもなお、
 人を咎めず、天を恨まなかった
 女性の原体験とは——】

 愛媛県西条市にある
「のらねこ学かん」という
 知的障碍者のための通所施設。

 ここを自費で運営する
 塩見志満子さんの人生は、
 まさに試練に次ぐ試練の
 連続だったといいます。

 ハンディのある人たちと関わり、
 その人生の花を開かせようと、
 きょうも奔走を続ける
 塩見さんの活動の原点とは——。

-・-・-・<『致知』より抜粋 >・-・-・-

【塩見】
 1つのきっかけとなったのは
 私が38歳の時に、小学2年生の
 長男を白血病で失ったことです。

 白血病というのは大変な痛みが
 伴うんですよ。

 ある時、長男は
 あまりの痛さに耐えかねて、
 そんなこと言う子じゃないんですが

「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」

 と大声で叫んだんです。
 
 主治医の先生は30代の
 とても立派な方で

「ごめんよ、ボク、ごめんよ」

 と手を震わせておられた。

 長男はその2か月半後に
 亡くなりました。

 ・  ・  ・  ・
 
 長男が小学2年生で
 亡くなりましたので、
 4人兄弟姉妹の末っ子の二男が
 3年生になった時、私たちは、

「ああこの子は大丈夫じゃ。
 お兄ちゃんのように
 死んだりはしない」

 と喜んでいたんです。

 ところが、その二男も
 その年の夏のプールの時間に
 沈んで亡くなってしまった。

 長男が亡くなって
 8年後の同じ7月でした。
  
 近くの高校に勤めていた私のもとに

「はよう来てください」

 と連絡があって、
 タクシーで駆けつけたら
 もう亡くなっていました。
 
 子供たちが集まってきて

「ごめんよ、
 おばちゃん、ごめんよ」と。

「どうしたんや」

 と聞いたら10分の休み時間に
 誰かに背中を押されて
 コンクリートに頭をぶつけて、
 沈んでしまったと
 話してくれました。

 ・  ・  ・  ・
 
 母親は馬鹿ですね。

「押したのは誰だ。
 犯人を見つけるまでは、
 学校も友達も絶対に許さんぞ」

 という怒りが
 込み上げてくるんです。

 新聞社が来て、テレビ局が来て
 大騒ぎになった時、
 同じく高校の教師だった主人が
 大泣きしながら駆けつけてきました。

 そして、

 私を裏の倉庫に連れていって、
 こう話したんです。

「これは辛く悲しいことや。
 だけど見方を変えてみろ。
 犯人を見つけたら、
 その子の両親はこれから、
 過ちとはいえ自分の子は
 友達を殺してしまった、
 という罪を背負って
 生きてかないかん。

 わしらは死んだ子を
 いつかは忘れることがあるけん、
 わしら2人が我慢しようや。

 うちの子が心臓麻痺で
 死んだことにして、
 校医の先生に心臓麻痺で死んだ
 という診断書さえ書いてもろうたら、
 学校も友達も許してやれるやないか。
 そうしようや。そうしようや」
  
 こんな時、
 男性は強いと思いましたね。

 ・  ・  ・  ・

 でも、いま考えたらお父さんの
 言うとおりでした。

 争うてお金をもろうたり、
 裁判して勝ってそれが何になる……。
 
 許してあげて
 よかったなぁと思うのは、
 命日の7月2日に墓前に
 花がない年が1年もないんです。

 30年も前の話なのに、
 毎年友達が花を手向けて
 タワシで墓を磨いてくれている。

 もし、私があの時
 学校を訴えていたら、
 お金はもらえても
 こんな優しい人を育てることは
 できなかった。

 そういう人が生活する町には
 できなかった。

 心からそう思います。

・  ・  ・  ・  ・

 ——宝物のような我が子を2人も
   失うという大変な逆境を、
   よくぞ乗り越えてこられましたね。
  
 でも、この苦しみは
 抜け出そうと思っても
 なかなか抜け出せるものでは
 ありませんでした。

 もう教師は辞めようと思って
 退職を願い出たこともあります。

 そうしたら校長先生が、

「もし、あなたが希望するなら、
 あなたを必要としている
 ところがあります」

 と言ってくださったんです。

 それが養護学校でした。 

 私はそれまで長く、
 教師として子供たちに
 人権教育を行ってきました。

 いじめはいけない、
 差別はいけないと。

 ・  ・  ・  ・

 だけど、ひとたび学校を出て
 家庭の主婦に戻った途端に
 対岸の火事でした。
 
 自分がその身になれないんです。

「これではいけない。
 養護学校に通う、
 あの子らに本気で学ばなんだったら、
 きっと一生後悔するだろう」

 と痛烈に思いましたね。
 
 教員になりたい人は
 いっぱいいます。

 だけど、この子らの将来を
 支える人がいない。

 この子らには卒業しても

「おめでとう」

 と言ってあげられない。

 次に行くところが
 ないわけですから。

 その頃はまだ、
 お母さんが泣きながら
 育てなくてはいけない
 世の中でした。
 
 私はこの子らと
 一緒に生活できる人になろう
 と思いました。

 それで57歳の時、
 教員を辞めて「のらねこ学かん」を
 立ち上げる決意をしたんです。

 ・  ・  ・  ・
 
 ——ご主人は納得されたのですか。

 納得してくれました。 

 でも、その主人も62歳の時に
 亡くなってしまうんです。
 
 国道を挟んだところにある畑に
 草を刈りに行く途中、
 2トントラックに
 はねられたんですね。
 
 本当の悲しみは涙が出ない、
 というのはそのとおりですね。

 主人が横たわっている座敷で
 天井を見ながら一日中ボーッと
 していました。
 
 そうしていたら若い男の人が
 訪ねてきたんです。
 トラックの運転手さんでした。

「僕が事故の相手です。
 許してくださいなんて言いません。
 殺されても仕方がありません。
 どうか奥さんのいいように
 してください」

 と土間に土下座しましてね。

 ・  ・  ・  ・
 
 二男が死んだ後、
 人を許すということを
 主人は教えてくれました。
 
 世界で一番憎たらしいその人が
 玄関に土下座した時、
 私がなんであんなことを言ったのか、
 自分でも分かりません。

 だけど私の口からこういう
 言葉が出たんです。

「あなただけが悪いんじゃないの。
 車と人が喧嘩をしたら
 車が勝つに決まっています。
 あなたは若いから、
 主人の分まで生きて
 幸せになってくださいよ。
 そうしたら主人も成仏できる。
 私が警察に嘆願書を出すから、
 どうかそうしてくださいね」

 だけど、許した後で
 親戚が家に集まってきて

「おまえの良識はおかしい」
「それじゃ死んだ者は浮かばれん」

 と散々詰め寄られました。
 
 その時、私は一人、
 親戚と闘いながら心の中で
 主人に静かに語り掛けていたんです。

「お父さん、
 これでよかったよね」って。

 ・  ・  ・  ・

 恐ろしいことに、いま、

「将来、自分の子供を殺すのが夢だ」

 と普通に語る小学生がいます。

 話を聞くと、幼い頃から両親に
 虐待を受けている。

 命というものが軽んじられる
 こんな時代にしてしまったのは
 私ら大人の責任です。
 
 私は自分が100まで生きても
 この罪の償いはできんと
 思っています。

 だけど、せめて自分に
 縁のある人たちの人生は
 花開かせてあげたいし、
 天国の主人もそのことを
 一番望んでいるのではないか
 と思います……

………………………………………………

「降りかかる逆境と試練が
 私の人生の花を咲かせた」
 
 塩見志満子
(のらねこ学かん代表)

『致知』2014年7月号

 特集「自分の花を咲かせる」より

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