【最愛の夫と息子を亡くしてもなお、
人を咎めず、天を恨まなかった
女性の原体験とは——】
愛媛県西条市にある
「のらねこ学かん」という
知的障碍者のための通所施設。
ここを自費で運営する
塩見志満子さんの人生は、
まさに試練に次ぐ試練の
連続だったといいます。
ハンディのある人たちと関わり、
その人生の花を開かせようと、
きょうも奔走を続ける
塩見さんの活動の原点とは——。
-・-・-・<『致知』より抜粋 >・-・-・-
【塩見】
1つのきっかけとなったのは
私が38歳の時に、小学2年生の
長男を白血病で失ったことです。
白血病というのは大変な痛みが
伴うんですよ。
ある時、長男は
あまりの痛さに耐えかねて、
そんなこと言う子じゃないんですが
「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」
と大声で叫んだんです。
主治医の先生は30代の
とても立派な方で
「ごめんよ、ボク、ごめんよ」
と手を震わせておられた。
長男はその2か月半後に
亡くなりました。
・ ・ ・ ・
長男が小学2年生で
亡くなりましたので、
4人兄弟姉妹の末っ子の二男が
3年生になった時、私たちは、
「ああこの子は大丈夫じゃ。
お兄ちゃんのように
死んだりはしない」
と喜んでいたんです。
ところが、その二男も
その年の夏のプールの時間に
沈んで亡くなってしまった。
長男が亡くなって
8年後の同じ7月でした。
近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」
と連絡があって、
タクシーで駆けつけたら
もう亡くなっていました。
子供たちが集まってきて
「ごめんよ、
おばちゃん、ごめんよ」と。
「どうしたんや」
と聞いたら10分の休み時間に
誰かに背中を押されて
コンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまったと
話してくれました。
・ ・ ・ ・
母親は馬鹿ですね。
「押したのは誰だ。
犯人を見つけるまでは、
学校も友達も絶対に許さんぞ」
という怒りが
込み上げてくるんです。
新聞社が来て、テレビ局が来て
大騒ぎになった時、
同じく高校の教師だった主人が
大泣きしながら駆けつけてきました。
そして、
私を裏の倉庫に連れていって、
こう話したんです。
「これは辛く悲しいことや。
だけど見方を変えてみろ。
犯人を見つけたら、
その子の両親はこれから、
過ちとはいえ自分の子は
友達を殺してしまった、
という罪を背負って
生きてかないかん。
わしらは死んだ子を
いつかは忘れることがあるけん、
わしら2人が我慢しようや。
うちの子が心臓麻痺で
死んだことにして、
校医の先生に心臓麻痺で死んだ
という診断書さえ書いてもろうたら、
学校も友達も許してやれるやないか。
そうしようや。そうしようや」
こんな時、
男性は強いと思いましたね。
・ ・ ・ ・
でも、いま考えたらお父さんの
言うとおりでした。
争うてお金をもろうたり、
裁判して勝ってそれが何になる……。
許してあげて
よかったなぁと思うのは、
命日の7月2日に墓前に
花がない年が1年もないんです。
30年も前の話なのに、
毎年友達が花を手向けて
タワシで墓を磨いてくれている。
もし、私があの時
学校を訴えていたら、
お金はもらえても
こんな優しい人を育てることは
できなかった。
そういう人が生活する町には
できなかった。
心からそう思います。
・ ・ ・ ・ ・
——宝物のような我が子を2人も
失うという大変な逆境を、
よくぞ乗り越えてこられましたね。
でも、この苦しみは
抜け出そうと思っても
なかなか抜け出せるものでは
ありませんでした。
もう教師は辞めようと思って
退職を願い出たこともあります。
そうしたら校長先生が、
「もし、あなたが希望するなら、
あなたを必要としている
ところがあります」
と言ってくださったんです。
それが養護学校でした。
私はそれまで長く、
教師として子供たちに
人権教育を行ってきました。
いじめはいけない、
差別はいけないと。
・ ・ ・ ・
だけど、ひとたび学校を出て
家庭の主婦に戻った途端に
対岸の火事でした。
自分がその身になれないんです。
「これではいけない。
養護学校に通う、
あの子らに本気で学ばなんだったら、
きっと一生後悔するだろう」
と痛烈に思いましたね。
教員になりたい人は
いっぱいいます。
だけど、この子らの将来を
支える人がいない。
この子らには卒業しても
「おめでとう」
と言ってあげられない。
次に行くところが
ないわけですから。
その頃はまだ、
お母さんが泣きながら
育てなくてはいけない
世の中でした。
私はこの子らと
一緒に生活できる人になろう
と思いました。
それで57歳の時、
教員を辞めて「のらねこ学かん」を
立ち上げる決意をしたんです。
・ ・ ・ ・
——ご主人は納得されたのですか。
納得してくれました。
でも、その主人も62歳の時に
亡くなってしまうんです。
国道を挟んだところにある畑に
草を刈りに行く途中、
2トントラックに
はねられたんですね。
本当の悲しみは涙が出ない、
というのはそのとおりですね。
主人が横たわっている座敷で
天井を見ながら一日中ボーッと
していました。
そうしていたら若い男の人が
訪ねてきたんです。
トラックの運転手さんでした。
「僕が事故の相手です。
許してくださいなんて言いません。
殺されても仕方がありません。
どうか奥さんのいいように
してください」
と土間に土下座しましてね。
・ ・ ・ ・
二男が死んだ後、
人を許すということを
主人は教えてくれました。
世界で一番憎たらしいその人が
玄関に土下座した時、
私がなんであんなことを言ったのか、
自分でも分かりません。
だけど私の口からこういう
言葉が出たんです。
「あなただけが悪いんじゃないの。
車と人が喧嘩をしたら
車が勝つに決まっています。
あなたは若いから、
主人の分まで生きて
幸せになってくださいよ。
そうしたら主人も成仏できる。
私が警察に嘆願書を出すから、
どうかそうしてくださいね」
だけど、許した後で
親戚が家に集まってきて
「おまえの良識はおかしい」
「それじゃ死んだ者は浮かばれん」
と散々詰め寄られました。
その時、私は一人、
親戚と闘いながら心の中で
主人に静かに語り掛けていたんです。
「お父さん、
これでよかったよね」って。
・ ・ ・ ・
恐ろしいことに、いま、
「将来、自分の子供を殺すのが夢だ」
と普通に語る小学生がいます。
話を聞くと、幼い頃から両親に
虐待を受けている。
命というものが軽んじられる
こんな時代にしてしまったのは
私ら大人の責任です。
私は自分が100まで生きても
この罪の償いはできんと
思っています。
だけど、せめて自分に
縁のある人たちの人生は
花開かせてあげたいし、
天国の主人もそのことを
一番望んでいるのではないか
と思います……
………………………………………………
「降りかかる逆境と試練が
私の人生の花を咲かせた」
塩見志満子
(のらねこ学かん代表)
『致知』2014年7月号
特集「自分の花を咲かせる」より
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致知出版社様メルマガよりシェアさせて頂きました。
押忍!
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