宇野千代氏の心に響く言葉より…
誰の心の中にも、自尊心と言うものは隠れている。
この自尊心があるために、人と人との関係が、何となく、ぎくしゃくすることがある。
自尊心と言うものが隠れている間は、何事も起こらないのに、一たび、ちょっとでも頭をもたげて来ると、面倒なことが起こる。
そのことを知っている人は、そのとき、ちょっと自分の自尊心をよそへ持って行く。
人の眼につかないところへ、隠しておく。
自尊心なんか持っていなかったような振りをする。
それに巧(うま)く成功すると、人と人との間には、案外、何事も起こらない。
自尊心をちょっとどこかへ隠す、と言うのは、何と言う便利なことであろうか。
『幸福は幸福を呼ぶ』集英社文庫
哲学者の森信三氏にこんな言葉がある。
『そもそも一人の人間が、その人の真価より、はるかに低い地位に置かれていながら それに対して毫(ごう)も不満の意を表さず、忠実にその任を果たすというのが、 この「下座行(げざぎょう)」の真の起源と思われる』
『下座行とは、一応、社会的な上下階層の差を超えることを、体をもって身に体する「行」といえる。
例えば「高慢」というがごとき情念は、 自分の実力を真価以上に考えるところから生じる情念といってよかろうが、 もしその人に、何らかの程度でこの「下座行」的な体験があったとしたら、 その人は恐らく、高慢に陥ることを免れうるのではあるまいか。
人の師たる人はとりわけ、この下座の体験者であり、下座の行者であることが、 何より大事なことであることだけは、このわたくしにも納得せられます』
『「どうして先生は隠れた真人の発見者であり発掘者でいらっしゃるのですか」という問いに対して、 「それは舞台に立ってから眺めておるとわからぬのです。 同じ平面の平土間に立つと、よくものが見えるのです」 とおっしゃられました』(師教を仰ぐ・森先生に導かれて)より
「俺は(私は)こんなもんじゃない」「なぜもっと偶されないのだ」と、自尊心や高慢な心が芽生えたときに必要なのが「下座の心」。
神はしばしば、この「下座の心」を試される。
瑞巌(ずいがん)和尚は、毎日自分に向かって「主人公」と呼びかけ、自分で「ハイ」と返事をしていたという。
「はっきりと目を醒ましているか」「ハイ」
「これから先も人にだまされるなよ」「ハイ」
『自尊心をちょっとどこかへ隠す』
瑞巌和尚にならい、自分に毎日呼びかけてみる…
「今、偉そうにしていないか?」と。
下座行の実践をしたい。
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押忍
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