◆ 円覚寺管長が語るいのちの授業 ◆
横田南嶺(円覚寺管長)
※『致知』2016年4月号【最新号】
※連載「禅語に学ぶ」P116
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仏教の死生観を説明する時に、
よく用いる話がある。
ある僧が、小3年の時、結核にかかり
休学して病床に伏したという。
まだ結核が死の病と
恐れられていた頃である。
幼い心にも
「このまま死んでしまうのでは」
という恐怖感を抱いた。
ある時には、暗闇の古井戸に
落ちていく夢を見て悲鳴を上げて
目を覚ましたりしたという。
死の恐怖である。
そんな折に寺の住職である父が、
優しく背中をさすりながら
こんな風船の話をしてくれたという。
「赤い風船が針で刺されて
破れても心配はいらない。
中の空気は外に出て行き、
お空の空気と合流するだけ。
いのちも同じで人は死んでも
終わりにならない。
大きないのちと合流し、
また新しいいのちが生まれる」
のだと。
人が死に直面してはじめて、
いのちとは何かを真剣に考える。
死は喪失であり、敗北ならば、
恐ろしいばかりであるが、
大いなるいのちと一つなる、
永遠なるものと
つながっていると気づけば、
死の恐怖感からも解放される。
円覚寺の朝比奈宗源老師も
幼い頃に両親を亡くされて、
死んだ親はどこに行ったのか
子供ながら求められた。
お寺にお参りして、
涅槃図(ねはんず)を拝んで、
お釈迦様は死んでも
しなないという説明を受け、
死んでもしなないとはどういうことか
明らかにしようと出家して坐禅された。
そうして長年の坐禅修行の結果悟り得た、
死んでもしなない世界を
このように分かりやすく表現されている。
致知出版社様メルマガよりシェアさせていただきました。
押忍!^^;
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