正法寺住職・愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董氏の心に響く言葉より…
久々に中学時代の同級会に出席しました。
かつてそれほど美しくなかった友が、深いしずけさをたたえた美しい人になっていました。
反対に美しかった友があまり目だたなくなっていました。
何十年か会わなかった間の、一人ひとりの友の生き方に思いをはせたことです。
深い美しさをたたえた友の人生は、必ずしも幸せなものではなかったようです。
"上手に苦労をした人だな"。
不幸なできごとを肥料と転じて、人生を深く豊かなものにしてこられたのだな"と思ったことです。
「仏法とは、此方(こちら)の目や耳や頭を変えることじゃ」
これは沢木興道老師の言葉です。
沢木老師は幼くして両親や、預けられた叔父さんを失い、最後に遊郭街の裏町にある沢木家にもらわれていきました。
ある日、廓(くるわ)遊びをしながら死んだ男の姿を見て、「いつなんどきお迎えがくるかわからん。内緒ごとはできんわい」と悟られ、「両親や叔父が相ついで死んでも目がさめない私のために、菩薩(ぼさつ)がこのような活劇を見せてくれた」と悟り、出家されました。
廓通いをしながら死んだ男さえも菩薩の化身と拝むことができたとき、沢木少年の心には菩薩として、光として刻みこまれてゆくのです。
一般世間では嘲笑ものでしかないことも。
問題は向こうにあるのではなく、どこまでも受けとめる側、自分にあるといえましょう。
女あり 二人ゆく
若きはうるわし
老いたるは なおうるわし
《ホイットマン》
若さ=美しさは自慢にはなりません。
「老いたるは なおうるわし」、皺(しわ)がなくて美しいというのではない。
白髪がなくて美しいというのでもない。
皺の一本一本、白髪の一本一本に、それまでの人生の一つひとつにどう取り組んできたか、その生きざまが、いぶし銀のように光る、人格の輝き、それが「老いたるはなおうるわし」というのです。
かつて芸大の学長であった平山郁夫先生と対談したことがあります。
そのときの心に残る言葉として、「一枚の絵は、それまでの人生をどう生きてきたかの総決算」であり、「技ではない。日頃、描き手が身につけたもの、蓄積したものしか出てくるはずがない」と語られたことです。
本命はどこまでも「わが人生をどう生きてきたか」であり、それが一枚の絵の味わいとしておのずからにじみ出るというのです。
早稲田大学の美術の先生で、歌人でもあった会津八一先生は、「御同様(ごどうよう)、気をつけて、美しき人になりたく候」と知人に書き送っておられます。
日々を大切に生きて、美しき人になりたいと思うことです。
《これまで生きてきた人生の総決算の姿が、今の私》
『泥があるから、花は咲く』幻冬舎
蓮(はす)の花は、泥の中で咲く。
人生としてそれを考えるなら、泥とは、困難や、つらいこと、不幸なできごと。
しかしながら、蓮の花は、その泥の臭(にお)いや、厳しさを、その身に少しも残さず、きれいな香りを放って咲く。
不幸なできごとを肥料と転じて、味わい深く生きてきた人だ。
反対に、つらいことや不幸なことに対し、始終、不平や不満をいい、他人やまわりのせいにしてきた人は、底意地の悪さや、いらやしさ、恨(うら)みなどが顔に出る。
つらいことや不幸なことなど、酸いも甘いも噛(かみ)分けて、善き人生経験を積んできた人の顔には限りない魅力がある。
「老いたるは、なおうるわし」
男も女も、老いてますます美しい人でありたい。
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