「息子の名前のつく村
~ナカタアツヒト村~」
中田武仁
(国連ボランティア終身名誉大使)
『致知』2008年9月号「致知随想」
━━━━━━━━━━━━━━
平成四年になって間もなく、
大阪大学を卒業し、
外資系のコンサルティング会社に
就職が決まった息子の
厚仁(あつひと)から、
一年間休職し、国連ボランティアとして
カンボジアに行きたい、という決意を
打ち明けられた。
カンボジアは長い内戦を
ようやく抜け出し、
国連の暫定統治機構のもとで
平成五年五月の総選挙実施が決まった。
人々に選挙の意義を説き、
選挙人登録や投開票の実務を
行う選挙監視員。
それが厚仁が志願したボランティアの
任務の内容だったのである。
厚仁の決意は私にとって
嬉しいことであった。
商社勤めの私の赴任先である
ポーランドで、
厚仁は小学校時代を過ごした。
いろいろな国の子どもたちと交わり、
アウシュビッツ収容所を見学したことも
契機となって、
世界中の人間が平和に暮らすには
どうすればいいのかを
考えるようになった。
世界市民。
その意識を持つことの大切さを
厚仁はつかみ取っていったようである。
一年間のアメリカの大学留学も
その確信を深めさせたようだった。
国連ボランティアは、
厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、
と感じた。
だが、現地の政情は安定には程遠い。
ポル・ポト派が政府と対立し、
選挙に反対していた。
息子を危険な土地に送り出す不安。
私には厚仁より長く生きてきた
世間知がある。
そのことを話し、それらを考慮した上の
決意かを問うた。
厚仁の首肯(うなず)きに
ためらいはなかった。
私は厚仁の情熱に素直に感動した。
カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、
政府に反対するポル・ポト派の拠点、
コンポントム州だった。
自ら手を挙げたのだという。
私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。
厚仁の任務があと一か月ほどで
終わろうとする
平成五年四月八日、私は出張先で
信じたくない知らせを受けた。
厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、
射殺されたのだ。
現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに
現地の人びとに信頼されていたかを
知った。
厚仁の真っ直ぐな情熱は、
そのまま人びとの胸に届いていた。
カンボジア佛教の総本山と
尊崇されている寺院で、
厚仁は荼毘(だび)に付された。
煙がのぼっていく空を見上げた時、
厚仁は崇高な存在になったのだと感じた。
私は決意した。
長年勤めた商社を辞め、
ボランティアに専心することにしたのだ。
そんな私を国連は
ボランティア名誉大使に任じた。
そういう私の姿は
厚仁の遺志を引き継いだ、
と映るようである。
確かに厚仁の死がきっかけにはなった。
だが、それは私がいつかはやろうと
していたことなのだ。
厚仁のように、
私もまた自分の思いを貫いて
生きようと思ったのだ。
私はボランティアを励まして
延べ世界五十数か国を飛び回った。
それは岩のような現実を素手で
削り剥がすに似た日々だった。
ボランティア活動をする人々に
接していると、
そこに厚仁を見ることができた。
それが何よりの悦びだった。
厚仁が射殺された場所は
人家もない原野なのだが、
カンボジアの各地から
三々五々その地に人が集まり、
人口約千人の村ができた。
その村を人々はアツ村と呼んでいる、
と噂に聞いた。
アツはカンボジアでの
厚仁の呼び名だった。
人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、
と思った。
ところが、もっと驚いた。
その村の行政上の正式名称が
ナカタアツヒト村と
いうことを知ったのだ。
このアツ村が壊滅の危機に
瀕したことがある。
洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。
私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、
集まった四百万円を被災した人びとの
食糧や衣服の足しに
してくれるように贈った。
ところが、アツヒト村の人々の答えは
私の想像を絶した。
カンボジアの悲劇は
人材がなかったことが原因で、
これからは何よりも教育が重要だ、
ついてはこの四百万円を
学校建設に充てたい、というのである。
こうして学校ができた。
名前はナカタアツヒト小学校。
いまでは中学校、幼稚園も併設され、
近隣九か村から
六百人余の子どもたちが
通学してきている。
やがては時の流れが物事を風化させ、
厚仁が忘れられる時もくるだろう。
だが、忘れられようとなんだろうと、
厚仁の信じたもの、
追い求めたものは残り続けるのだ。
これは厚仁がその短い生涯をかけて
教えてくれたものである。
厚仁の死から十五年が過ぎた。
ひと区切りついた思いが私にはある。
楽隠居を決め込むつもりはない。
国連は改めて私を
国連ボランティア終身名誉大使に任じた。
この称号にふさわしい
ボランティア活動を、
これからも貫く決意だ。
十五年前、
あれが最後の別れになったのだが、
一時休暇で帰国しカンボジアに戻る
厚仁に、私はこう言ったのだ。
「父さんもベストを尽くす。
厚仁もベストを尽くせ」
ベストを尽くす。
これは息子と私の約束なのだ。
厚仁の短い生涯が、
人間は崇高で信じるに足り、
人生はベストを尽くすに足ることを
教えてくれるのである。
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~ナカタアツヒト村~」
中田武仁
(国連ボランティア終身名誉大使)
『致知』2008年9月号「致知随想」
━━━━━━━━━━━━━━
平成四年になって間もなく、
大阪大学を卒業し、
外資系のコンサルティング会社に
就職が決まった息子の
厚仁(あつひと)から、
一年間休職し、国連ボランティアとして
カンボジアに行きたい、という決意を
打ち明けられた。
カンボジアは長い内戦を
ようやく抜け出し、
国連の暫定統治機構のもとで
平成五年五月の総選挙実施が決まった。
人々に選挙の意義を説き、
選挙人登録や投開票の実務を
行う選挙監視員。
それが厚仁が志願したボランティアの
任務の内容だったのである。
厚仁の決意は私にとって
嬉しいことであった。
商社勤めの私の赴任先である
ポーランドで、
厚仁は小学校時代を過ごした。
いろいろな国の子どもたちと交わり、
アウシュビッツ収容所を見学したことも
契機となって、
世界中の人間が平和に暮らすには
どうすればいいのかを
考えるようになった。
世界市民。
その意識を持つことの大切さを
厚仁はつかみ取っていったようである。
一年間のアメリカの大学留学も
その確信を深めさせたようだった。
国連ボランティアは、
厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、
と感じた。
だが、現地の政情は安定には程遠い。
ポル・ポト派が政府と対立し、
選挙に反対していた。
息子を危険な土地に送り出す不安。
私には厚仁より長く生きてきた
世間知がある。
そのことを話し、それらを考慮した上の
決意かを問うた。
厚仁の首肯(うなず)きに
ためらいはなかった。
私は厚仁の情熱に素直に感動した。
カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、
政府に反対するポル・ポト派の拠点、
コンポントム州だった。
自ら手を挙げたのだという。
私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。
厚仁の任務があと一か月ほどで
終わろうとする
平成五年四月八日、私は出張先で
信じたくない知らせを受けた。
厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、
射殺されたのだ。
現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに
現地の人びとに信頼されていたかを
知った。
厚仁の真っ直ぐな情熱は、
そのまま人びとの胸に届いていた。
カンボジア佛教の総本山と
尊崇されている寺院で、
厚仁は荼毘(だび)に付された。
煙がのぼっていく空を見上げた時、
厚仁は崇高な存在になったのだと感じた。
私は決意した。
長年勤めた商社を辞め、
ボランティアに専心することにしたのだ。
そんな私を国連は
ボランティア名誉大使に任じた。
そういう私の姿は
厚仁の遺志を引き継いだ、
と映るようである。
確かに厚仁の死がきっかけにはなった。
だが、それは私がいつかはやろうと
していたことなのだ。
厚仁のように、
私もまた自分の思いを貫いて
生きようと思ったのだ。
私はボランティアを励まして
延べ世界五十数か国を飛び回った。
それは岩のような現実を素手で
削り剥がすに似た日々だった。
ボランティア活動をする人々に
接していると、
そこに厚仁を見ることができた。
それが何よりの悦びだった。
厚仁が射殺された場所は
人家もない原野なのだが、
カンボジアの各地から
三々五々その地に人が集まり、
人口約千人の村ができた。
その村を人々はアツ村と呼んでいる、
と噂に聞いた。
アツはカンボジアでの
厚仁の呼び名だった。
人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、
と思った。
ところが、もっと驚いた。
その村の行政上の正式名称が
ナカタアツヒト村と
いうことを知ったのだ。
このアツ村が壊滅の危機に
瀕したことがある。
洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。
私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、
集まった四百万円を被災した人びとの
食糧や衣服の足しに
してくれるように贈った。
ところが、アツヒト村の人々の答えは
私の想像を絶した。
カンボジアの悲劇は
人材がなかったことが原因で、
これからは何よりも教育が重要だ、
ついてはこの四百万円を
学校建設に充てたい、というのである。
こうして学校ができた。
名前はナカタアツヒト小学校。
いまでは中学校、幼稚園も併設され、
近隣九か村から
六百人余の子どもたちが
通学してきている。
やがては時の流れが物事を風化させ、
厚仁が忘れられる時もくるだろう。
だが、忘れられようとなんだろうと、
厚仁の信じたもの、
追い求めたものは残り続けるのだ。
これは厚仁がその短い生涯をかけて
教えてくれたものである。
厚仁の死から十五年が過ぎた。
ひと区切りついた思いが私にはある。
楽隠居を決め込むつもりはない。
国連は改めて私を
国連ボランティア終身名誉大使に任じた。
この称号にふさわしい
ボランティア活動を、
これからも貫く決意だ。
十五年前、
あれが最後の別れになったのだが、
一時休暇で帰国しカンボジアに戻る
厚仁に、私はこう言ったのだ。
「父さんもベストを尽くす。
厚仁もベストを尽くせ」
ベストを尽くす。
これは息子と私の約束なのだ。
厚仁の短い生涯が、
人間は崇高で信じるに足り、
人生はベストを尽くすに足ることを
教えてくれるのである。
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