親にとって最も辛く悲しいのは、
いつも傍にいてくれると思っていた我が
子が病気や不慮の事故、あるいは自らの
意思によって亡くなってしまうことでしょう。
私はこれまでそういう悲しみに数多く接してきました。
ごく最近も、二十歳になったばかりの
大学生のご長男を突然の交通事故で失った
お母様のお手紙を受け取ったばかりです。
オートバイを運転していた時、後ろから走ってきた
大型トレーラーに巻き込まれてしまったといいます。
そのお母様は茫然自失の日々を過ごしていた時、
友人の紹介で私の著書に触れ、
私が出演したテレビ番組を繰り返し見て、
そこに小さな光明を見出されました。
「聖なる諦め」という言葉に力を得て、
この世の中には当たり前のことなど何一つなく、
すべては奇跡の連続であることに気づかれたというのです。
お母様の深い悲しみに寄り添いながら、
私は「日々起きてくる出来事には必ず意味がある」
という言葉を改めて思いました。
息子さんは親の手が届かない遠い世界に
行ってしまったとしても、自らの命を
投げ出すことによって人生を生きていくことの意味や
尊さをご両親に教えてくれているのだと感じたのです。
それは安閑とした日々の中ではまず
得ることのできない大切な気づきです。
これまでご両親から受けた愛に対する
息子さんからの恩返しであり、恵みに他なりません。
もちろん、そうは言っても悲しみは
拭い去れるものではないでしょう。
しかし、悲しみを悲しみとして静かに
受け入れ続けていくうちに、
いつしか深い深い人間的な豊かさが育まれていくはずです。
たとえ時間や場所はなくても、
誰かの役に立てる方法が私たち
人間には与えられています。それは祈ることです。
大切な我が子が亡くなったり道を踏み外したりした時、
誰もが無力感に苛まれます。たとえ何もできない
状況に追い込まれたとしても、我が子や家族の幸福を
思って祈ることはできます。そして、祈りには
私たちが思ってもみないような癒やしの力があるのです。
シスターとして祈りの人生を送ってきた私は、
そのことを強く確信しています。
鈴木秀子(文学博士)
致知出版社様メルマガよりシェアさせていただきました。
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