「周りのみんなに優しさを配ってごらん」
(「死にたい」「手首を切った」、そんな相談に水谷さんはどのように答えているのですか、の質問に)
「水谷です。君が死ぬのは哀しいです」
それだけです。
すると大体
「ごめんね、先生を哀しませて。でも死にます」
と返ってくる。
これでこの子は死にません。
(なぜです?)
意識が外へ向きます。
彼らの意識構造は閉鎖的で内へ向いていますから、それを外に向けさせる。
それだけでとりあえずは助かります。
そして僕は一つのお願いをします。
「周りのみんなに優しさを配ってごらん。何でもいいんだよ。お父さんの靴磨きでもいいし、洗濯物を畳むのでもいい」
「そんなことして何になるの」
「いいから、まずやってごらん」と。
二、三日後には、心ある親なら子どもの変化に気づきます。
「先生、お父さんが靴を磨いていたのを気づいてくれて、ケーキ買ってくれた。ありがとう」
というようなメールや電話がくる。
そこで今度は親と話します。
お母さんに毎晩一緒に寝て、触れ合ってください、とお願いするのです。
日本の小児科医の父と呼ばれた内藤寿七郎先生は、「子どもは三歳までに決まる」と言いました。
三歳までにどれだけ触れ合って、抱っこしたかで人生が決まると。
いま、子どもを全然抱いていないでしょう。
保育園に預けても、数人の先生では子ども全員を十分に抱くことはできない。
車ではチャイルドシートなんかに乗せて、全然抱いていないですよ。
たとえ十代になっても二十代になっても遅くはないから、お母さんに彼らと触れ合って、抱き締めてほしいとお願いするのです。
抱き合えばいいんです。
触れ合えばいいんです。
言葉は要りません。
大人たちは頭を使い過ぎますよ。
子どもたちが待っているのは、考えてもらうことじゃない。
そばにいてくれることです。
それを頭で考えて、言葉でこね繰り回すから、むしろ言葉で子どもたちを傷つけて追い込んでいる。
いま世の中、ハリネズミだらけだ。
教員と生徒も、親と子も、社会全体がそうです。
愛し合って認め合いたいのに、針を出し合う。
例えば、娘が深夜一時頃帰宅した。
親はもう泣きたいくらい心配なんですよ。
玄関のドアが開いた瞬間、本当は、「やっと帰ってきた。心配していたんだぞ」
と言いたいのに、「何やっていたんだ、こんなに遅くまで!?」と言ってしまう。
一方、娘は家に帰ったら、「遅くなってごめんね」と言おうと思っていたのに、親に強く言われたものだから、「うざいんだよ!!」と言ってしまう。
「何だ、その口の利き方は。おまえなんか帰ってくるな!」
「分かったよ、出てけばいいんでしょ!!」……。
素直になればいいんです。
そして、言葉を捨てればいい。
教育に言葉は要らないのです。
水谷修(元高校教諭)
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押忍
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